明暦の大火②

●火災原因を巡る諸説
 乾燥と強風という悪条件下での失火が、防災体制の脆弱さを突いて拡大したと捉えるのが妥当だと思われるが、この火災原因には諸説あり、真相は謎のままである。
 ・牢人放火説
 火災当時から幕府も牢人による放火を有力として捜査していたが、当時広がったのが由比正雪の乱の指導者の一人丸橋忠弥の残党が火を放ったとする説である。牢人による放火という噂は大火直後から出回り、大火の三日前一月十五日に丸橋忠弥の残党が放火を予告する「火札」を立てていたという風説があったという(「江戸の風評被害」P100)。結局放火か否かはわからないままだった。大火後、牢人を警戒して大火前は武家地のみに置かれていた辻番を町人地にも置くようになり、後に木戸番・火付盗賊改方など治安維持機構へ発展していく。
 ・本妙寺火元引受説
 火元となった本妙寺が大火後もとくにお咎め無しでむしろ幕府の支援を受けてより発展したという経緯から、実は本妙寺に隣接する老中阿部忠秋邸が火元であり、本妙寺は幕府からの要請で火元の汚名を引き受けたとするもの。大火後の本妙寺の隆盛、都市整備の過程で多くの寺社が移転を命じられる中での不動、阿部家から大火後代々本妙寺に回向供養料が送られていたことなどを主な根拠としているが、説を示す明確な史料はなく結果論的な推測の域を出ない。当の本妙寺はこの説を強く主張している。
 ・幕府放火説
 大火後の幕府による大規模な都市整備の実行を根拠として、老中松平信綱が江戸の都市改造を行うため江戸の町を焼き払わせたとする陰謀論。むしろ大火による幕府がうけた被害の大きさや、その対応に際しての幕閣の混乱、その後の復興過程での出費の巨大さ、その巨大な出費が幕府の慢性的財政危機をもたらしたことなどなど、幕府がわざわざ半世紀かけて築いた都市を焼くことに根拠は見いだせない。
 ・振袖火事伝承
 明暦の大火は「振袖火事」とも呼ばれ、振袖を焼いた火が火災の原因になったという話がよく知られている。麻布百姓町の質屋遠州屋の一人娘梅野が本妙寺に参詣の途中で出会った寺小姓の美少年に一目惚れし、その行方を探したが見つからない。同じ模様の振袖を作って恋焦がれる思いを慰めていたが結局明暦元年一月十六日、彼女は十七歳の若さで亡くなってしまう。寺に納められた振袖を本妙寺住職は古着屋に流すが、その翌年の同じ日に上野の紙商大松屋の娘きの(十七歳)の葬儀でその振袖が再度納められ、やはり古着屋に流すが、さらに翌年明暦三年の同日、麩屋の娘いく(十七歳)の葬儀で三度その振袖が本妙寺に戻ってくる。そこで住職は一月十八日、大施餓鬼を修してその振袖を火に投じたところ、燃えた振袖は風に煽られて舞い上がり、本堂を焼いてその火が江戸の町に燃え広がった、という。

●幕府の災害対応
 ・明暦の大火時の消防体制
 当時の消防組織として大名火消がある。寛永六年(1629)に設置された奉書火消は将軍の命令に基づき大名を非常招集して消化にあたらせるものだったが、実効性に薄く、寛永二十年(1643)、譜代十六大名を四組ごとに編成し、一万石毎に30名、一組420名の火消しを出して消防活動にあたらせる大名火消が創設、のちに十大名三組に縮小された。
 一方町人の消防組織としては、慶安元年(1648)、火災発生時に火元の町人が全員参加で消火活動にあたらせること、不参加者は罰金とすること、二時間交替の夜番を設けること、町役人による見回りなどの「駆付火消」が定められ、承応二年(1653)、各家庭手桶に水を汲んで軒に吊るすこと、はしごを用意しておくことなどが命じられていた。
 このような大名火消と町人の自治的な消防活動が当時の基本的な消防組織だったが、大名火消は江戸城周辺と武家屋敷以外の火災には積極的ではなく、町人による自治的活動にも限界があり、建物の構造的な問題もあって、火災に対して脆弱な体制に留まっていた。この脆弱性が明暦の大火の際に火災被害を大規模なものとした要因の一つである。

●幕府の体制
 このときの幕閣は老中が酒井忠清(老中首座)、松平信綱阿部忠秋の三名、将軍家綱の輔佐役である大政参与として保科正之井伊直孝の二名、ほかに元大老酒井忠勝が重きをなしている。特に中心的役割を担ったのが松平信綱であった。火災発生直後、江戸城本丸の焼失にともない、将軍家綱以下幕閣は西の丸に移ったが、この際老中松平信綱の指揮で大奥の女中を移動させるとき、避難がスムーズに進むよう本丸から西の丸へ至る各部屋の畳を一畳ずつ裏返して目印にして経路を示し、女中たちは迷うこと無く避難が出来たという。その後も江戸城は火の手が止まず、将軍家綱に対し酒井忠勝は自身の別荘へ、松平信綱は東叡山へ、井伊直孝は赤坂への避難を薦めたが、阿部忠秋は御所に火が移っても庭の空き地に避難が可能であることなどの理由から軽々しく城外へ動くべきではないと主張、これを家綱も入れて西の丸に留まり指揮を執った。大火の翌日、信綱は関東中に大火で江戸城が焼失したが問題ないこと、気にせず耕作に励むことなどの触れを出し、同時に使者を大坂へ使わして道中各所で将軍の無事を告げてまわり、同時に将軍安泰を告げる飛脚を京都・奈良・長崎などを始め全国各地に派遣して民心の安定に務めた。