明暦の大火(振袖火事)

◆振袖火事,丸山火事ともいう。明暦3 (1657) 年1月 18〜19日の江戸の大火。火元は本郷丸山本妙寺で3人の女が法会 (ほうえ) のため振袖を焼いたのが出火原因となり,焼失町数約 500〜800,旗本屋敷,神社仏閣,橋梁など多数が焼け,さらに江戸城天守も焼失した。 1657年(明暦3年)1月18日から19日にかけ三次に渡り連続して発生して江戸の町を焼きつくした大規模火災は明暦の大火と呼ばれて「江戸の三大大火」の一つに数えられている。また、この大火災害からの復興の過程で江戸の町が整備され、後の百万都市「大江戸」の土台が整うことになった。当時の江戸は、約八十日間雨が降っておらず非常に乾燥して火災が起こりやすい状態にあり、また年初より小規模火災が頻発していた。さらに、前日十七日頃から北西の風が吹き、十八日未明から強風となって朝になってもなお砂塵で暗かったという。乾燥した気候と延焼しやすい強風という悪条件が重なっていたのである。
 1657年(明暦3年)1月18日、本郷の本妙寺より出火した火炎は、この季節特有の強い北西風と前年の晩秋からのひでりという条件下で江戸の町をなめ尽くしました。翌日午前11時、別の場所からの出火により江戸城天守閣、本丸、二の丸が炎上、夜に入ると番町方面からの出火で町々は焼け、鎮火したのは20日の午前8時ごろでした。高層を誇った江戸城天守閣は二重目の窓が大火によるつむじ風で自然に開き、火炎を帯びた熱風がなかに吸い込まれ、火勢は本丸、二の丸を襲いました。途中で風向きが変わったため西丸は焼失をまぬがれ城内の人々は争ってそこに避難しました。
①第一次:本郷丸山町本妙寺から出火
 一月十八日未の刻(午後二時頃)、本郷丸山町(文京区)の寺院本妙寺から出火、強風を受けて本郷・湯島・駿河台へと延焼、湯島天神神田明神東本願寺を焼いて神田川南岸(現在の万世橋から浅草橋にかけての一帯)を焦土と化し、神田・日本橋へ南下、町人地を焼き尽くし、夕方から風が西風に変わったことで佃島・石川島の町家を焼いた。また火の手は隅田川を越えて向島八幡宮を焼失させ、吉原も全焼させる。日本橋埋立地霊巌島にある霊巌寺には被災者が避難していたが、火が燃え移って九千六百人が焼死、小伝馬町の牢獄では火が燃え移ったことで奉行の判断により囚人が一時解放されたが、これを脱獄と勘違いした他の役人によって浅草橋が封鎖され、逃げ場を失った町人二万三千人が焼死することになった。多くの犠牲者を出して最初の火災は翌十九日深夜二時頃鎮火した。
②第二次:小石川新鷹匠町から出火
 一月十九日巳の刻(午前十時頃)、小石川伝通院下新鷹匠町の大番与力宿舎から出火して水戸藩邸を焼くと江戸城に燃え移り、天守閣・本丸・二の丸が炎上、西の丸は延焼を免れたが、江戸城周辺にも拡大して大名・旗本屋敷を焼き、日本橋、京橋などの橋が焼失、特に京橋一帯では多くの犠牲者を出した。さらに新橋一帯、木挽町(現在の銀座)一帯にまで火が達し、江戸湾沿岸で多くの船を焼いたあと、鎮火した。
③第三次:麹町から出火
 一月十九日申の刻(午後四時頃)、麹町の民家から出火、江戸城の堀に沿って南下し、外桜田、西の丸下大名小路の大名屋敷を焼き、日比谷から愛宕下、さらに芝浦にまで到達し周辺を焼き尽くして夜通し猛威をふるい、翌日二十日朝に鎮火した。前日避難時に持ちだされた家財道具が道を塞いでいたことから、逃げ道を封じられ犠牲者が多く出ることになった。
④明暦の大火による被害規模には諸説あるが、現在の千代田区中央区のほぼ全域、文京区の約60%、他千代田区に隣接する一帯が焼失、当時の江戸市中の六割を焼いた。死者数は「上杉家譜」によれば三万七千余人、「むさしあぶみ」によれば十万二千百余人、「元延実録」は六万八千余人としている。明暦三年(1657)時点で町人人口28万人というから武士も同程度として江戸人口を約50万人と推測すると、死者十万人を取ればおよそ二割が死亡したことになる。