ホワイトデー、北陸新幹線 きょう開業1周年、春どこへ?そして梶川与惣兵衛

◆ホワイトデー
 2月14日のバレンタインデーにチョコレートを贈られた男性が、返礼のプレゼントをする日。バレンタインデーのチョコレートに対しキャンデーやマシュマロをお返しするのが一般的になっている。日本でバレンタインデーが定着するにしたがって、若い世代の間でそれにお返しをしようという風潮が生まれた。これを受けたお菓子業界では昭和50年代に入ってから、個々に独自の日を定めて、マシュマロやクッキー、キャンデー等を「お返しの贈り物」として宣伝販売するようになった。この動きをキャンデーの販売促進に結びつけ、全国飴菓子工業協同組合(全飴協)関東地区部会が「ホワイトデー」として催事化した。そして1978(昭和53)年、全飴協の総会で「キャンデーを贈る日」として制定され、2年の準備期間を経て1980(昭和55)年に第1回のホワイトデーが開催された。
 ホワイトデーを3月14日に定めたのは、269年2月14日、兵士の自由結婚禁止政策にそむいて結婚しようとした男女を救う為、バレンタイン司教が殉教し、その一箇月後の3月14日に、その2人は改めて二人の永遠の愛を誓い合ったと言われていることに由来する。

北陸新幹線 きょう開業1周年
 北陸新幹線がきょう開業1周年を迎える。JR金沢駅では切手セットの贈呈式が行われた。切手には鉄道写真家の写真が絵柄として採用され、辻昭夫駅長、写真家の北村信治さん、南雅彦さんが受け取った。切手セットは北陸新幹線の郵便局、日本郵便ホームページで販売。北陸新幹線は開業から1年で乗客が3倍となり、JR西日本は2年目も初年度並みの乗客を目指すとしている。

◆春どこへ? 32年ぶり!3月の東京 5日連続10℃未満。
 東京では3月に入り5日間連続で最高気温が10度を下回った。これは32年ぶりのことだという。

◆「抱き留めた その片腕が 二百五十石」。梶川与惣兵衛は、江戸城松之廊下で浅野内匠頭を「殿中でござる」と抱き留めた旗本。この功で梶川は500石の加増に与かるが、のちに「斬らせてやればよかった」と述懐。墓所は東京中野の乾竜山天徳院に。
*梶川与惣兵衛…「殿中でござる!」でおなじみの、怪力無双の馬鹿力。
 イベント中に浅野内匠頭に打ち合わせに松の廊下に行ったら、そこにいたイベント部長の吉良が「あ〜そいつダメダメ。聞いてもなにもわかんないから。」と侮辱。突如内匠頭が爆発して吉良に切り掛かったんで、「浅野様やばいですって!」とはがいじめにした。内匠頭は必死に「離してくれ!あと一太刀!」と懇願したが梶川はその場に押さえつけた。公儀から「内匠頭を押さえたのは神妙」ということで即日五百石のご加増を受けた。が老中たちの屋敷にお礼の挨拶回りに行ったらどこへいってもすごく対応が冷ややかで、曽我兄弟の掛け軸を例に「花も実もあるのが武士の情け。お前はもう目通り無用!出てけ!」とみんなから怒られる。ここで「あぁ俺、なんだかよけいなことしちゃったな」と反省し、退職。頭を丸めて全国行脚したとする浪曲がある。
 刃傷松之廊下についての幕府の公式文書たる「徳川実紀」の記録を見ていただきました。刃傷松之廊下について書いた一次資料が二つあります。
 一つが留守居番の梶川与惣兵衛が書いた「梶川与惣兵衛日記」で、もう一つは「多門伝八郎覚書」です。この中で、刃傷の発生の様子を記録されているのは「梶川与惣兵衛日記」ですので、 今日は、「梶川与惣兵衛日記」に、刃傷松之廊下がどのように書かれているか見てみましょう。
 梶川与惣兵衛は、当時、留守居番でした。留守居番というのは、野口武彦氏の「忠臣蔵」によれば大奥の警護および事務取扱役だそうです。3月14日は、将軍綱吉の正室鷹司信子の指示を受け、表に来ていました。そして、偶然にも刃傷松之廊下に出会うハメとなりました。梶川与惣兵衛の役目は、御台所からの土産品を勅使に渡す役目をでした。勅使の登城時間が早くなったことを知らされたため、そのことについて吉良上野介と協議しようとして、吉良上野介を探しますが、吉良上野介がいませんでした。そこで、浅野内匠頭を呼びにいかせると、浅野内匠頭がきたので、よろしくとお願いしました。その後。吉良上野介が白書院の方に見えました。
 刃傷が起きた時の様子を書いた部分は次のようです。梶川与惣兵衛日記の原文は以下のとおりです。「其後御白書院の方を見候ヘバ、吉良殿御白書院の方より来り申され候故、又坊主ニ呼ニ遣し、其段吉良殿へ申候へば、承知の由にて此方へ被參候間、拙者大広間の方へ出候て、角柱より六七間もへき所にて双方より出合、互いに立居候て、今日御使の刻限早く相成り候儀を一言二言申候処、誰やらん吉良殿の後より「此間の遺恨覺えたるか」と聲を懸け、切付け申候 (其太刀音ハ強く聞え候へども、後に承り候へば、存じの外、切れ不申、淺手にて有之候)。
我等も驚き見候へば、御馳走人の内匠頭殿なり。
 上野介殿「是ハ」とて、後の方へ振り向き申され候処を又切付けられ候故、我等方前へ向きて逃げんとせられし処を、又二太刀ほど切られ申候。上野介其侭うつむきに倒れ申され候。(吉良殿倒れ候と大かたとたんにて、間合は二足か三足程のことにて組付候様に覺え申候)。 右の節、我等片手ハ内匠殿小さ刀の鍔にあたり候故、それ共に押付けすくめ申候。其内に近所に居合申されし高家衆、并に内匠殿同役左京殿などかけ付けられ、其外坊主共も見及候処に居合候者共、追々駈け来り取り押さへ申候。』
 白書院の方を見ると、吉良上野介が白書院の方からやってくるので、坊主に問い合わせると 承知したとのことで、こちらにやってくる間、私は大広間の方の「御休息の間」の障子明かりの所でまっていました。それより大広間の方にでて、角の柱から6〜7間の距離あるところで、双方出会って、そこで立って、今日のお使いの時刻が早くなったことを一言二言話したところ、吉良上野介の後ろから誰かわからないが「この間の遺恨覚えているか」と声をかけながら斬りつけました。驚いてみると浅野内匠頭でした。吉良上野介がこれはと後ろを振り向いていったところまた斬りつけられました。そこで向きを変えて逃げようとしたところをまた二太刀斬られました。その時に自分が浅野内匠頭に飛びかかったところ、小さ刀のつばがあったので浅野内匠頭を押し付けました。そのうちに、近くにいた高家衆や浅野内匠頭の同役の伊達左京など、さらに近くにいた者たちがやってきてとりおさえました。
 (「気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録 」http://wheatbaku.exblog.jp/19863298/より引用)