明暦の大火③(通算1534日・1534日間継続中)、伝法院公開(浅草寺)

◆明暦の大火ご、幕府はどう動き、江戸は変わっていったのか。
①幕府の対策
・食糧配給・価格統制
 幕府は内藤忠興(陸奥磐城平藩)ら四大名に被災者への粥の施行を命じて一日千俵(約52.5トン)、2月12日まで続けられ六千石(約900トン)使われた。また保科正之により浅草の米蔵の焼け米が被災者に放出された。幕府は火災直後からの米価騰貴対策のため、二十一日、価格上限を定めるとともに、二十四日には紀伊和歌山藩から献上された千俵の米を安価で販売、一方で信綱は旗本に時価の倍にして金を渡したため、諸国から利益を求めて米が大量に搬送され、被災者に食料を大量に供給することができた。また大火後、材木相場が急騰したことから幕府は、江戸城再建の三年延期、江戸復興のための材木は天領からまかない民間から買い上げないこと、大名屋敷再建の優先順位を下げるという噂を流し、あわてた材木商たちが材木を手放したため材木相場が急落したという。これには、大火後の一月二十六日に寒波が江戸を襲い大雪となって凍死者が続出したことで、家屋再建のための材木調達が急務となっていたことも背景となっている。この材木相場で大儲けした人物として、豪商河村瑞賢が名高い。
・参勤交代停止・武士の早期帰国による人口抑制
 物価高騰で庶民が困窮している状況を踏まえて人口抑制のため江戸詰番の諸大名に帰国を促した。二月九日には大名十七名に参勤を免じるなど、庶民救済に重点を置くために江戸の武士を抑制する政策を打った。これらの政策に対し、紀伊徳川頼宣はこのような緊急時こそ人員を多く呼び寄せるべきではないかと異を唱えたが、松平信綱はこう答えたという。「このようなことを方々と議すると、何かと長談義に日を費やし無益のことです、後日お咎めあれば信綱一人の落度にしようとの覚悟でこのように計らいました。今度の大災害で諸大名の邸宅も類焼して居所もないので、就封させて江戸を発足すれば、品川・板橋から先は家があり、上より居宅を下されたも同じことです。また府内の米蔵はすべて焼けたので、大名が大勢の人数で在府すれば食物に事欠き、飢民も多くなるでしょう。よって江戸の人口を減少させれば飢民を救う一端となります。万一この機に乗じ逆意の徒があっても、江戸で騒動を起こされるより地方で起こせば防ぐ方策もあろうかとこのように致しました。」一方で、大火の翌日には水戸頼房が秘密裏に人員を江戸に送るよう命を受けており、不要な武士を江戸から追放しつつ災害対応のために精鋭のチームを編成している。
・資金援助の実施
 罹災した大名(一万石以上九万九千石以下)に対し、翌年からの十年返済で銀百貫目以上の資金を援助した。九万九千石から八万六千石の大名に銀三百貫目、八万五千石以下一万石毎に銀を下げ、一万五千石から一万石までは銀百貫目となる。旗本・御家人には九千九百石から百石まで区分を分けて七二五両から一五両まで賜金を、蔵米取り(給料を米で支給されていた者)には九五俵に十一両二分、以下五俵ごとに金二分を減じて支給した。また、江戸市中に銀一万貫目(金十六万両)が下され、焼失した町家は800町、4万8000間であったから、間口一軒につき金三両一分または銀六匁八分であったという。ただし大火で幕府の金蔵が焼亡したため、急ぐ者や千石以上の者は大坂で、千石以下は駿府で銀が渡された。また松平信綱阿部忠秋駿府・大坂にあてて銀子の大量輸送を指示、大坂・駿府に対して白銀一万貫を小分けにして五日置きに運ぶことが命じられ、二月二十八日までに続々と江戸に資金が到着して、そのまま下賜手続きが行われている。
・回向院の建立と死者の埋葬
 一月二十四日、市中を回った保科正之は積み上げられた焼死体の山を見て早急な埋葬が必要であることを献言、二月二十九日、焼死者を本所牛島新田に埋葬し、増上寺法主遵譽貴屋に命じて法事を修させた。後に貴屋は小石川智光寺の自心を移住させて阿弥陀を本尊とし、幕府からも土地を得て回向院を開創した。このとき埋葬された焼死体は男女十万八千余人と言われるが、回向院の過去帳には二万二人、実際は五万人ほどであったという。
②江戸の変化
・江戸の再建と都市改造
 江戸幕府草創以降、徳川家の城下町から日本の首府へ、急速かつ無制限に拡大しつつあった江戸の脆弱さを明暦の大火は露呈し、幕府は一から江戸の都市計画を考えなおす必要性に駆られた。そこで幕府が江戸再建にあたって目指したのが防災都市化であった。最初に着手したのが地図の作成である。大火直後の一月二十七日、幕府は大目付北条政房、新番頭渡辺綱貞に命じてそれまでの視覚的な概念図から一変、オランダから輸入したばかりの最新測量技術「町見術」(「水平に置いた板の上に紙を置き、そこに直接、地形の縮図を写し取る技法」(「国立国会図書館和算コレクション > 和算資料ライブラリー 4 実学・測量関係 | 江戸の数学」)、すなわち現代で言う平板測量技術)を使い実測した地図を作成させた。「日本地図史上画期的なもの」(内藤昌著「江戸と江戸城」P67)とされ、縮尺三二五〇分の一、江戸と周辺地域の詳細実測地図である。この実測図に基づき、大規模な都市改造が行われた。
 世情が安定し始めた明暦三年(1657)三月十五日、幕府は江戸城再建のため二名の石垣奉行を任命、五月九日より江戸城本丸の普請が始められた。石垣工事には各大名一万石につき百名の人夫が出され、元号が改まった万治元年(1658)末、石垣工事が完了。現在残る江戸城の石垣はほぼこのときのものである。万治二年(1659)一月十一日、久世大和守広之を惣奉行に任じて本丸工事が開始、伊予宇和島藩伊達宗利ら十大名によって工事が薦められ、同年九月五日、落成した。本丸再建に際して、天守閣の再建が議論になったとき、保科正之は「天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯観望に備ふるのみなり、これがために人力を費やすべからず」として天守閣の再建に反対、この意見が容れられて結局江戸城天守閣は再建されなかった。
 これまで江戸城は御三家を始め近親者を城下近くに配置していたが、この方針を一変、まず尾張紀伊を麹町へ、水戸を小石川へ移転させ、その跡地は吹上の庭として馬場・薬園をおき、冬期の西北風への備えで火除地とした。竜ノ口内、竹橋内、常盤橋内、代官町、雉子橋内の大名屋敷も城外に移転させて跡地は充分な空き地をもった幕府御用地とした。諸大名は上・中屋敷とともに避難用の下屋敷が与えられ、上屋敷は常盤橋から丸の内、日比谷、霞ヶ関愛宕山下に集中、一方、麻布、白金、品川などにも下屋敷が設けられた。明暦の大火後にこれら武家屋敷が集中した武蔵野台地の東端一帯が「山の手」である。寺社も大規模な郭外転出が行われ、分散配置されることになった。主な寺社として山王社は三宅坂上から溜池上へ、東本願寺神田明神下から浅草へ、西本願寺日本橋から築地へ、吉祥寺は水道橋から駒込へ、霊巌寺霊岸島から深川へとそれぞれ移転した。結果として、浅草、下谷、谷中、牛込、四谷、赤坂、芝、三田などに寺町が誕生、江戸市街の周縁部を構成し、それぞれの発展が江戸の周辺地域への拡大(スプロール現象)を引き起こした。駒込に移転した吉祥寺だが門前の町民は五日市街道沿い多摩郡野方領に開拓民として移動させられ、吉祥寺村(現在の武蔵野市吉祥寺周辺)を作った。
 江戸市中における防火帯として火除地・広小路が設けられた。火除地は明地(空き地)や防火堤を設けて火災の延焼を防止するもので、南北に延焼する江戸の火災の特徴を踏まえ、江戸城の北部から西北部にかけて集中配置された。これによって、御三家退出後の吹上の庭とあわせて、江戸城は三重の防火帯が設置されたことになる。神田銀町七町の町人を移転させて神田から浅草見附に至る約一キロの一帯に高さ四間(約7.2メートル)の土手が築かれ松が植えられて火除堤とされた。また、日本橋四日市町にも日本橋川に沿って四〇間(約72.5メートル)にわたり同様の火除堤が設けられた。火除明地(空き地)として上野広小路、中橋広小路(現在の八重洲通り)・両国広小路・湯島広小路などが新設、神田連雀町も火除地とされて現地の町人は開拓民として武蔵野郊外へ転出させられ、連雀新田(現在の三鷹市上連雀下連雀町)を開発した。後に各広小路周辺は、防災対策で広小路に商売物を置くことは禁じられていたが、は露店が集まって江戸の繁華街を構成し、文化発信地として発展していった。
 火除地の新設に基づき、町人地の町割りが改められ、幅一〇間(約18メートル)の日本橋通りと幅七間(約13.8メートル)の本町通りをメインストリートとし、各道路沿いの町家から庇(ひさし)が撤去され京間一間(約1.97メートル)後退させて京間五間(約9.85メートル)から六間(約11.8メートル)の道路幅が取られ、これらの徹底のために明暦三年〜万治二年までの二年間に十五回も改正が行われている。武家屋敷・寺社・町人地の移動にともない周辺地域に新たな市街地が造成された。赤坂溜池が一部埋め立てられ、京橋木挽町東側海岸の埋め立てによって築地が誕生した。これまで隅田川を東端として発展が止まっていたが、万治三年(1660)、隅田川に両国橋が架橋されて災害時の避難ルートが確立されるとともに、対岸の本所・深川が開発された。日本橋の吉原遊廓はかねてから移転の方針であったが、大火後浅草に移転させられた。万治三年(1660)、大火の際に瓦の落下で多数のけが人が出たことから瓦葺き屋根が禁止され、茅葺き・藁葺きには土を塗って防火対策を取るよう命じられた。また、被災者の新築の建物には茅葺き・藁葺き・柿葺きなどの燃えやすい素材が禁止されて塗屋・蛎殻葺きなどの耐火建築が推奨された。翌寛文元年(1661)には新規の茅葺き・藁葺き建築が禁止されて、すべて板葺きにするよう命じられた。後に、享保五年(1720)、土蔵・塗屋造りの普及が推進されて本格的な防災建築が広まっていく。
 万治元年(1658)、幕府は定火消四組を創設、旗本秋山政房ら四名を火消役に任命した。それぞれ火消役の下に与力六騎、同心三〇人が属し、それぞれ麹町・飯田町・小川町・御茶ノ水江戸城北西部に火消屋敷が設けられ、火災警戒・消火活動とあわせ、鉄炮の所持が認められて火災時の治安維持を役目とした。万治二年には二組、万治三年にはさらに二組、寛文二年(1662)にも二組が増設されて十組編成となり、元禄八年(1695)には十五組にまで拡大して、人足として各組最大三百人まで使うことができた。町人に対しては万治元年(1658)、従来の「駆付火消」に対し、羽織に町名を入れること・日頃から手桶・熊手など消防道具を用意しておくことなどが定められたが、同年、南伝馬町・材木町などの町々で各々六名〜十七名計一六七名の消防組織を設立、非協力者は町からの追放などが取り決められ、自発的組織が誕生していった。定火消と町人の自発的消防組織とが誕生して、江戸の消防体制は大幅に強化されたが、一方で江戸の急拡大に充分に対応出来ず、享保五年(1720)のいろは47組(のちに48組)からなる町火消の誕生へとつながっていく。
 江戸は、明暦の大火からの復興と都市改造によって徳川家の城下町から際限なく拡大する大都市へとその都市基盤が整い、人口の集中と経済活動の活性化をもたらした一方で、かかった費用は莫大なものであり幕府の慢性的な財政赤字のきっかけとなった。大野瑞男著「松平定信」によれば本丸再建に九三万四三四七両余・米六万七八九三石、万治元年の大火もあわせて復興費用として駿府・大坂から一〇三万両が回送され、その後も続々と出費が相次いで、延宝四年(1676)、ついに二〇万両の財政不足を生じることになった。幕府の金蔵は空っぽになったのである。この財政危機が、幕府をして財政政策に対する関心を大いに高め、以後滅亡までの二百年、様々な改革が断行されていった。

◆桜の開花宣言がありましたが、桜の名所である浅草では、「隅田公園桜まつり」がメインどころです。
・伝法院公開(浅草寺) 3/18(金)〜5/9(月)
 浅草寺五重塔のそばに、ふだんは非公開の名園がある。この期間中に公開される伝法院は、お庭と建物、秘蔵の美術品、今はなんといっても 桜が、この時期の公開の楽しみである。
隅田公園桜まつり(隅田公園) 3/20(日)〜4/10(日)