巨城・名護屋城

豊臣秀吉朝鮮出兵の拠点として建設した巨城・名護屋城。秀吉の死後は、初代唐津藩主・寺沢広高唐津城築城の部材として解体・利用。また島原の乱後、幕府は一揆の拠点とならぬよう、石垣も破却させたとか。以後は唐津藩が「古城番」を置いて管理。
名護屋城は、肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市(旧東松浦郡鎮西町呼子町)、東松浦郡玄海町)にあった城。豊臣秀吉文禄・慶長の役に際し築かれた。国の特別史跡に指定されている。平成18年(2006年)には日本100名城(87番)に選定された。名護屋城波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170,000平方メートルにわたり築かれた平山城の陣城である。五重天守や御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた。 城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄した。秀吉の死後、大陸進攻が中止されたために城は廃城となったと考えられており、建物は寺沢広高によって唐津城に移築されたといわれている。石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分が残る。歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている。