二宮敬作と北口本宮冨士浅間神社

◆文政11年(1828)、シーボルトの愛弟子・二宮敬作は、富士山頂で気圧計を用いて標高を測定、3794m(確定値3776m)と高精度な値を得た。今は登山口には北口本宮富士浅間社拝殿が設けれれている。元文3年(1738)築。

・二宮敬作(にのみや けいさく、文化元年5月10日(1804年6月17日) - 文久2年3月12日(1862年4月10日))は、江戸時代後期の蘭学者・医学者。日本初の女医(産科医)となったシーボルトの娘・楠本イネを養育したことでも知られている。
 文政2年(1819年)、医師を志し長崎へ留学。吉雄権之助や美馬順三に師事し、蘭語蘭方医学を学んだ後、文政6年(1823年)、ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの門弟となり鳴滝塾で学ぶ。文政9年(1826年)、シーボルトの江戸行きに同行し、測量器(水銀気圧計と推察される)を用いて富士山の高度を日本で初めて測量した(シーボルトの母国の恩師への報告によると測量結果は4982mである(『江戸参府紀行』東洋文庫 - シーボルト著))。シーボルトが江戸参府したとき、同行した敬作に富士山の高さば計り、まさに、敬作は日本で初めて、日本一の山・富士山の高さば洋式測量術で計ったといわれている。これがきっかけになって洋式の測量術が日本でも広まっっていったらしい。また、シーボルト著の『日本植物誌』(Flora Japonica)によると、敬作が九州の高山から採取した植物にシーボルトが「ケイサキイアワモチ」(Corylopsis Kesakii)と命名したとされている。ところが、文政11年(1828年)にシーボルト事件が起き、シーボルトは長崎を去るが、敬作は弟子の高良斉(こうりょうさい)とともに漁師に変装して小舟に乗り、シーボルトを見送ったといわれている。この際に、シーボルトの娘イネの養育を託された。その後、敬作は事件に連座し、半年の入獄ののち、江戸立ち入り禁止され長崎からも追放され、故郷・磯崎に戻った。

北口本宮冨士浅間神社とは
 景行天皇40年(西暦110年)、日本武尊ご東征の折、足柄の坂本(相模国)より酒折宮(甲斐国)へ向かう途中で当地「大塚丘」に立ち寄り、そこから富士の神霊を親しく仰ぎ拝され「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と語り、大鳥居が建てられ、大塚丘に浅間大神日本武尊をお祀りし、当社の創建となった。天応元年(781)、富士山の噴火があり、甲斐国主の紀豊庭朝臣が卜占し、延暦7年(788)、大塚丘の北方に社殿を建立された。これが現在社殿のある地で、ここに浅間大神を移し、大塚丘には日本武尊をお祀りした。古代、富士のような高い山、美しい山は神のおわす山として人が入ることは禁忌であった。よって当地は、ご神体の富士山を遥かに拝み祭祀を行う場であり、現在拝殿を囲んでいる巨木はその神域を物語っている。平安時代の頃に山岳信仰が普及し、登山を実践して修行する修験道が各地で広まるとともに富士講が出現し、発展するにつれ、御山に登ること即ち祈り、とする「登拝」によって、人々は山頂を目指すようになった。
 (富士講とは)初めて富士登山を行ったのは、大宝元年(701)の役小角という行者であるといわれ、のちに富士講の開祖と仰がれる藤原角行師は、天正5年(1533)に登山している。富士講は「江戸の八百八町に八百八講あり」といわれるほどに繁栄し強大になり、甲州街道と富士みち(現国道137号線)を通って吉田口(北口)登山道から入山する関東一円、更に北陸や東北、関西にまでも拡大した。中でも大きな団体であった村上講の村上光清師は、藤原角行師の6世の弟子にあたり、享保18年から元文3年までの6年間(1733〜1738)で、境内社殿の大造営を行った。現存する社殿と境内構成のほとんどはこの時に定まり、廃仏毀釈により損失しつつも噴火の被害は受けずに、現在もなお当時のままの荘厳な趣を伝えている。主な社殿は、仁和3年(887)より、藤原当興、北条(左京太夫)義時、武田信玄、浅野(左衛門佐)氏重、鳥居(土佐守)成次、秋元(越中守)富朝、秋元(摂津守・但馬守)喬朝、らによって造営が重ねられた。
 貞応2年(1233)北条義時造営ののち、永禄4年(1561)に武田信玄が再建した社殿が現存する中では最も古く、「東宮本殿」として現本殿の東側に、また、文禄3年(1594)浅野氏重殿造営の社殿は「西宮本殿」として現本殿の西側に移されている、現在の本殿は、元和元年(1615)鳥居土佐守成次殿の創建で、いずれも国指定重要文化財である。(北口本宮冨士浅間神社HPより引用)

<今日のニュース>
民進党が本格始動 「期待しない」59.7% 厳しい現実。
 有楽町では昨日誕生した民進党が街頭演説を行っている。今日の街頭演説は「民進党始めます 全国キャンペーン」の第一弾で今後党幹部らが全国を回る予定。当面は党名の浸透に力を入れる。昨日民進党結党大会が行われ国会議員156人の勢力が誕生した。昨日の結党大会で岡田代表参院選で敗北すれば責任を取ると強調し、さらに岡田代表安倍総理が衆参ダブル選挙に踏み切るならば受けて立つとも強調し、民進党による政権交代に向け、ラストチャンスだと強い危機感とともに決意を示した。人事は幹事長に枝野氏が横滑りした他、代表代行には維新の党江田氏らが就き、政調会長には若手の山尾志桜里氏が抜擢された。一方で岡田代表が党名を間違える場面も。世論調査では民進党に期待するとした人が約27%、期待しないが6割近くにのぼった。
八角vs貴乃花 一騎打ち 理事長に八角親方再選
 日本相撲協会は任期満了に伴う新しい理事長を選ぶため理事会を開き八角理事長が再選した。新理事長は親方10人の理事による互選で決定し、貴乃花親方との一騎打ちになったが八角理事長は6対2で制した。
◆36回目の優勝も…横綱 白鵬の涙はヤジのせい?場内で何が?胸中を語る。
 きのうの大相撲春場所 千秋楽・日馬富士-白鵬の取り組みで立ち会いから勝負が決まるまでの時間1秒1とまさかのあっけない幕切れに優勝インタビューでブーイングが飛び交う事態が起きた。この事態に白鵬は涙の謝罪をした。一夜明けた今日、会見で白鵬は「変化はあまりよろしくないけどねあれで決まると思ってなかったからさ。まぁ稀勢の里も何日目だっけ琴奨菊戦。9日目かありましたからね。変化したのは8か月ぶりに賜杯を抱きたいという気持ちが強かったのでしょうね」と話した。
 4場所ぶり36回目の優勝を果たした白鵬大鵬の32回、千代の富士の31回を塗り替えた。きのうの優勝インタビューで流した涙のワケはきょうの会見で8か月ぶりの優勝である事と父のモンゴル相撲での優勝回数6階に並んだ事に起因した。きのうの大相撲春場所白鵬が繰り広げた変化とは立ち会いで真っ直ぐに当たらず左か右にかわすことで注文ともいう。
 きのうの優勝インタビューの最中に怒号が飛び交い満員札止めだったが表彰式前に席を立つファンが続出した。八角理事長は「変化というよりいなしだよね」と見ている。いなしとは突進してくる相手の体勢を崩して進行方向を変える事。今場所の白鵬は今月20日の対嘉風でダメ押し、流血、かち上げ連発、親方骨折があった。
 心理的には白鵬は、上り詰めてきたのに下り坂にきている可能性が強いのかな。まさに、焦りの現れかな。