飯沼新田。井沢弥惣兵衛。第八代将軍吉宗。

◆8代将軍吉宗の新田奨励策により、大規模な開発が行なわれた飯沼新田。常総市で一般公開されている国重要文化財・坂野家住宅は、「頭取」として開発を主導した豪農の屋敷。1haもの敷地は武家屋敷のように薬医門と土塀で囲まれ、豪壮にして典雅。

●「飯沼新田」について
 飯沼新田は、江戸時代の享保年間に干拓・開発された。現在の坂東市常総市古河市、八千代町の三市一町にまたがる美田は、「飯沼三千町歩」と称されている。享保9年(1724)、地元村々の開発願いに対する幕府の許可が下り、巨大な沼地であった飯沼を干拓する大規模な新田開発が行われた。この開発によって31新田が成立し、飯沼は一大穀倉地帯に生まれ変わったものの、構造的な排水不良や利根川の河床上昇による逆水の流入は如何ともしがたく、大雨時の水害は絶えることはなかった。以後、水との戦いは、近現代の最新技術導入によって排水問題を解決するまで300年の長きに亘った。現在の飯沼耕地は、さまざまな改良事業・耕地整理が行われたことにより、近代的で実り豊かな水田地帯となっている。

●井沢弥惣兵衛為永は紀伊国那賀郡溝口みぞのくち村、現在の和歌山県海南市野上新に生まれた。井沢家は溝口村の豪農であった。元禄3年(1690)にに紀州2代藩主徳川光貞に召し出された(当時28歳)。この元禄3年には野上八幡宮海草郡野上町小畑)に手水鉢を寄進している。(「溝口村生 井沢宇左衛門尉氏勝 元禄三庚午年五月」とある。氏勝は為永のこと。 以後綱教、頼職よりもと、吉宗、宗直と5代の藩主に30年余仕え、藩の土木工事に携わった。紀州における最大の事業は亀池(名草郡坂井村、現海南市)の築造と新川の改修である。亀池はもと谷田池という小さな池であったが、亀ノ川の上流亀ノ欠から水を引き、池の北側に高さ16mの堤を築いて池の拡張を行った。この結果7000石を養う灌漑池になったという。現在も貯水量540万㎥で、多くの地を潤している。新川の改修は、蛇行しながら和歌浦に注いでいた亀ノ川を直線に改修し川の氾濫を防ごうとしたものである。その他藤崎井用水、小田井用水など多くの工事を行っているが、地元ではあまり評価されてこなかったようである。「江戸時代人づくり風土記30 和歌山」農山漁村文化協会(1995) には、地域に尽くした先駆者として「治水と農業振興に尽くした井沢弥惣兵衛と大畑才蔵」の項があるが、大部分を弥惣兵衛の配下にいた大畑才蔵に費やし、「紀州における弥惣兵衛の足跡は亀池築造しか知られていません。」とある。
 吉宗は享保元年(1716)8代将軍に就任すると、享保7年(1722)7月に江戸日本橋に高札を立て新田開発を奨励した。その2ヶ月後、弥惣兵衛は吉宗に召し出され、享保8年(1723)7月18日御勘定に就任した。徳川実紀には、「新田の開墾、河渠の浚利など、年ごろ熟せしきこえあるをもてなり」とある。紀州において発揮した力量をかったためであろう。弥惣兵衛55歳、当時としては隠居してもいい歳であった。弥惣兵衛は享保10年(1725)勘定吟味役格となり、享保12年(1727)には新田開発はすべて弥惣兵衛の所管とされた。享保16年(1731)勘定吟味役本役、さらに享保20年(1735)には美濃郡代を兼務するなど取り立てられていった。
 弥惣兵衛の業績で最大のものは、享保10年(1725)の下総国飯沼新田開発と享保13年(1728)の武蔵国見沼代用水開削・見沼新田開発であろう。飯沼はもと下総国猿島、結城、岡田の3郡にまたがる南北約20km、東西約1.5kmの細長い沼であった。江戸日本橋に掲げられた新田開発奨励の高札を知り、享保7年(1722)7月尾崎村名主秋葉佐平太が中心となって飯沼周辺20ヶ村による新田開発の願書が出された。同年8〜9月弥惣兵衛検分、同9年(1724)5月に新田開発の許可がでた。同10年(1725)1月着手。飯沼の水を利根川に落とし(飯沼川)、下野国河内郡下吉田村(現栃木県南河内町)から用水を引き(吉田用水)新田開発を行った。同年10月ほぼ完成。これによって生じた新田1525町歩余、石高1万4383石余であった。ほぼ現在の茨城県猿島郡三和町猿島町結城郡八千代町、石下町岩井市水海道市にまたがる地であった。
 また、見沼は、もと武蔵国足立郡、現在のさいたま市の東部にあった、Yの字のような平面形をした低湿地であった。Y字形の左側(西側)の低地の中央には芝川が流れていた。寛永6年(1629)、関東郡代伊奈半十郎忠治はY字形の南側の部分に堤を築き(八丁堤)、芝川を堰き止めた。ここに見沼溜井といわれた周囲40数kmに及ぶ大きなY字形の沼が出現した。(見沼はもとは三つの沼、三沼であったともいわれている) この見沼溜井は南側221ヶ村の潅漑用水源となった。一方台地周辺にすでに開かれていた水田は水没(この水没を地元では「水いかり」と呼んだ)、わが大和田村は88石5斗2升1合、村高の実に35.4%を失った。なお、領主の伊達氏は代替地として大竹村(現川口市)に欠損分だけ交付をうけている。弥惣兵衛はこの見沼溜井の干拓にのりだした。干拓地と溜井の水を利用していた村々の水を確保するために新たに用水路の開発を計画した。享保12年(1727))8月工事開始。利根川右岸の下中条村(現行田市)で取水(元圦もといり)、用水路は途中の荒木村小見おみ(現行田市)で星川に合流させて星川の流路を利用、さらに下流の大山村上大崎(現菖蒲町)で星川と分離、星川側に十六間堰、用水路側に八間堰を作り水量を調節、さらにの柴山村(現白岡町)で元荒川と交差するが元荒川の下をサイフォン式にくぐり(伏ふせ越こし)、ついで瓦葺かわらぶき村(現上尾市)で交差する綾瀬川は掛かけ渡井といをかけて通し(現在は伏越)、そこで西側の台地の端を掘削した西縁にしべりと東側の台地の端を掘削した東縁ひがしべりの2つの用水路に分流してそれぞれ浦和・川口方面にと全長60kmに及ぶ用水路を作り上げた。見沼の代わりなので見沼代用水とよばれた。着工後6ヶ月という短期間で完成させた。一方見沼溜井は八丁堤を切って溜水を放流、中央に排水路(見沼中なか悪水路)をつくり、芝川につなげた。こうして1228町5反歩の通称見沼田圃たんぼができあがった。なお、見沼開発は17ヶ村の村請で行われたが、どういうわけか大和田村は参加していない。そのため大和田村のすぐ下の見沼田圃は対岸の土呂とろ村の領地になってしまった。享保16年(1731)には見沼代用水路の有効利用ということもあって、代用水路縁辺の村々から芝川・荒川を通って江戸の河岸に至る通船を計画。弥惣兵衛は用水路と芝川が最も接近している八丁堤の近くに通船掘を作った。用水路と芝川では水面の高低差が約3mあるので、西縁、東縁と芝川の間にそれぞれ2ヶ所の閘門を設け、3段の水面の調節によって船を通すようになっている。パナマ運河より183年早く同じ原理の閘門式運河を完成させた。この見沼通船は昭和6年まで利用された。(さいたま市立博物館より)

●第八代将軍吉宗(有徳院)
 父・徳川光貞紀伊二代) 母(側室)・浄円院( お由利の方) 在位29年1ヶ月(1716〜45) 紀州徳川家 享年68歳 墓所・上野寛永寺
 8代将軍吉宗は、徳川御三家紀州藩第2代藩主の徳川光貞の4男に生まれる。初代家康は祖祖父にあたる。父光貞と兄二人の死後、宝永2年(1705)22歳で第5代紀州藩主を継ぎ、宝永地震で疲弊した藩財政立て直した。宝永3年に伏見宮家の真宮理子を正室に迎えるが宝永7年(1710)に死別した。吉宗はこの後二度と正室を迎えることはなかったが、正徳元年(1712)(側室・須磨(深徳院)との間に長男・長福丸(徳川家重)、正徳5年(1716)側室・吉牟(本徳院)との間に二男・小次郎(田安宗武)が生まれている。
 7代家継の死により秀忠の血をひく徳川宗家の男系男子が途絶え、6代家宣の正室・天英院の推挙により御三家筆頭の尾張家を抑えて、初の養子として徳川宗家を相続し、享保元年(1716)江戸幕府の第8代将軍に就任した。吉宗は家宣時代からの正徳の治を改め、水野忠之を老中に任命して幕政改革を始める。江戸町火消、小石川養生所、目安箱、町奉行大岡忠相の登用など江戸三大改革のひとつ享保の改革を推し進めた。長男家重に将軍を譲った後も大御所として権力を維持し、新田開発を奨励し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことで米将軍(八十八将軍)と呼ばれていた。これらの幕府改革で破綻財政の復興を成し遂げたことで「中興の祖」と呼ばれる名君として名高い。

<今日のニュース>
◆消費支出 うるう年効果で。
 2月の家計調査では、1世帯あたり消費支出が6か月ぶりの上昇。総務省が発表した2月の2人以上の世帯の家計調査によると、1世帯あたりの消費支出は、26万9774円となり、物価変動を除いた実質で1年前に比べ1.2%増加。プラスは6ヶ月間ぶりだがうるう年で2月が一日多かったことを除くと消費支出はマイナスになる。総務省は消費の基調として「弱い動きがみられる」との見方を維持した。
◆由伸監督が開幕4連勝!クルーズ、ギャレ、立岡弾で快勝
 由伸巨人は、投打がかみ合いDeNAに快勝し開幕4連勝を決めた。巨人の新監督開幕4連勝は1981年巨人の藤田新監督の開幕4連勝以来。2回クルーズ2号ソロ、4回ギャレット2号2ラン、5回立岡がプロ初本塁打を放った。8回には坂本の犠飛とギャレットの適時打で加点した。