布施弁天東海寺と本多豊前守正永。

◆千葉柏の布施弁天東海寺本堂は享保2年(1717)の建立。柏周辺を飛び地として領知していた沼田藩主・本多豊前守正永は、弁財天を篤く信仰。98人もの大名に寄進を求め、火災で失われた同寺本堂を再建。内陣の天井には寄進した98家の家紋がある。

●「布施の弁天さま」として親しまれている当山は、紅龍山布施弁天東海寺と称し、大同2年(西暦807年)に弘法大師空海御作といわれる弁財天像をご本尊(秘仏)として開山された祈願寺である。平成18年には本堂・楼門・鐘楼が千葉県重要文化財の指定を受けた。
 七福神の弁天様は、『大日経』に説かれている二臂(二本の腕)をもっており琵琶を奏でる天女姿で、当山の布施弁天は義浄がインドから中国に持ち込んだとされる、『金光明最勝王経』に説かれている八臂弁財(才)天である。八臂(八本の腕)弁財天は、剣、弓、矢、斧など武器を持った戦闘神、守護神の風体で裸形や天女の風情ではなく、中国の貴族女性の服装のようになっている。剣は、不動尊も持っていますが、冴えわたった知恵を現し、また煩悩を断ち切るめに知恵の利剣というような意味で剣を持っている。玉はいわゆる宝珠ということで、財宝、心の幸せを与える宝としてもっており、弓とか矢は、それぞれ心の魔、煩悩などを退治する知恵を改良するために持っている。殊に、日本では江戸時代に七福神の1つとして、もっぱら福徳財宝の神であるとして衆庶の信仰を集めたもの。弁財天はインド神話に出てくる河川神を神格化した女神のことである。俗に弁財天とも書き、略して弁天と呼びます。この神は人の汚れを払い、富・名誉・福徳・食物を与え勇気と子孫とを恵むとされ、のちには学問と技芸の神、雄弁と知恵の保護神としての地位を与えられたものである。
 弁財天の祠が多く水辺にあるのはもと河川神であったことに由来し、古来、近江の竹生島、相模の江の島、安芸の厳島、陸前の金華山、大和の天の川をもって本邦五弁天と称し、これに対して、先の江の島、上野不忍に布施弁天を加え関東三弁天と呼んでいる。(布施弁天東海寺HP由緒より引用)

●本多豊前守正永は、江戸時代前期から中期の旗本、大名。下総舟戸藩主、上野沼田藩初代藩主。正保2年(1645年)11月11日、旗本本多正直の長男として江戸で生まれる。延宝5年(1677年)に家督を相続したが、弟の正方に1000石を分与したため7000石を知行した。元禄元年(1688年)に寺社奉行となり、1万石に加増され、舟戸藩主となった。元禄9年(1696年)には若年寄となり、元禄14年(1701年)に上総・下総国内で5000石を加増された。元禄16年(1703年)に上野沼田へ移封された。宝永元年(1704年)には老中(5代将軍綱吉、6代将軍家宣)となって、1万石を加増され、最終的には4万石を領した。沼田藩政では、以前の領主である真田信利の悪政(http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2012/11/post-c62d.html)で荒廃していた沼田藩の再興に務めている。正徳元年(1711年)5月19日、67歳で死去。