特別展「徳川家康〜将軍家蔵書から見るその生涯」を開催

◆東京千代田区国立公文書館では、今日日(土)から5月8日(日)まで、特別展「徳川家康〜将軍家蔵書から見るその生涯」を開催。林述斎らが編纂した幕府の正史『御実紀』(徳川実紀。旧紅葉山文庫所蔵)の原本など、貴重な史料を展示。

徳川家康
 家康は群雄割拠の戦国時代、深慮遠望を持って事に当たり、天下統一を成し遂げた。家康は将軍職を徳川家累代の世襲とし、広く世に知らしめる為に短期で2代秀忠に将軍職を譲る。さらに3代目将軍に家臣団はおろか父秀忠まで加わって次男国松が擁立されようになると、自ら江戸城に入って長男家光を世継ぎに据えて、形式や制度を重視する長子世襲制を揺るぎない統治の礎とした。
 徳川家康織田信長と同盟、豊臣秀吉に臣従した後、応仁の乱から123 年続いた戦乱に終止符を打った。「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座って喰らうは徳川家康」と狂歌で揶揄されている。しかし、家康が信長や秀吉と全く異なる政権基盤を築いた。江戸幕府は、全国の直轄幕領地や旗本知行地などで総石高の3割に相当する700万石を独占管理していた。さらに貨幣経済の根幹も抑え、他の大名の追随を許さない圧倒的な権力基盤を築いた。これを背景に武家諸法度禁中並公家諸法度、社寺法度によって、全国諸大名、寺社、朝廷、皇室までも新秩序における関係を明確に規定することで取締まり支配した。このように徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の支配体制は極めて完成度の高いものであった。天正16年(1590)8月1日に家康が江戸城に入府以来、慶応4年(1868)4月7日十五代将軍慶喜江戸幕府が瓦解するまでの278年間もの長きに渡って徳川将軍家が継続支配したのである。
 徳川家の祖とする新田家の家紋は一つ引両であったが、家康の生家である三河の豪族松平家は縁で二葉葵を使用していた。葵紋は本来、京都鴨賀茂神社に由来する鴨氏の家紋であった。賀茂の神官の血を引く家康家中の本多氏も三つ葉立葵を家紋としていた。ある戦で出陣の縁起物を三つ葉葵の敷物の上に並べ、見事戦に勝利した縁起を担いで三つ葉葵を家紋に定めたと伝わっている。この葵紋は、家康が征夷大将軍となってから権威ある紋として一般の使用を禁止し、将軍家と御三家のみで独占使用とした。だが賀茂氏と縁のある三河国親藩の一部には継続して葵紋の使用を許した。これまで信長や秀吉に天皇が桐紋を下賜したように徳川家に与えようとしたが、家康が断ったことでさらに葵紋の価値が上がった。徳川家では葵紋の格式を表すため、各家固有のの葵紋様を定めた。
・松平竹千代→松平元信→松平元康→徳川家康
家康は天文11年(1542)岡崎城松平広忠尾張刈谷城主水野忠政の娘(於大の方)の間に生まれた。3歳のときに忠政が織田方についたため、今川方の広忠は妻と離縁した。母親から引き離された幼い家康(竹千代)は、8歳で父弘忠は暗殺された。天文18年(1549)人質として駿府へ送られる。駿府では今川義元に奉仕し、元服に際し、主君の一字を与えられて松平元信(通称次郎三郎)を名乗り、今川一族から妻瀬名(築山殿)を迎え、元康と名を改めた。家康は築山殿との間に長男信康と長女亀姫をもうけた。永禄3年(1560)桶狭間の戦い今川義元織田信長に討たれ混乱に乗じて今川氏から独立し岡崎へ帰還した。永禄4年(1561)には信長と和睦(清州同盟)して勢力拡大を謀るが、それは今川家との絶縁を意味していた。信長に配慮せざるを得ない家康は築山殿との別居に追い込まれた。
 永禄6年(1563)年に義元の一字を捨て元康から家康に改名する。同年に一向宗を中心とした一揆が勃発すると、半年かけて鎮圧した一向宗を禁止する。永禄8年(1565)年には今川勢を東三河から駆逐する。さらに遠江に侵攻して、元亀元年(1570)には浜松城を築き本拠とする。しかし、元亀3年(1572)南進する武田軍と戦い大敗する。そのときにあまりにも悔しかったため、生涯の自省をこめて自分自身の苦々しい表情の絵を描かせている。さらに家康は同盟者織田信長との関係に翻弄されることになる。家康の長男信康に信長の娘徳姫を正室に迎えていた。信長は娘の徳姫から夫信康の母築山殿が武田家に内通しているという手紙を受け取った。家康は武田信玄の後継者・勝頼とは依然として敵対関係にあり、内通は裏切り行為であり、天正7年(1579)、徳川家の分裂を防ぐため、家臣に築山殿の殺害を、信康には切腹を命じた。妻と長男を犠牲にすることで家康は徳川家の安泰を謀ったのである。
 天正3年(1575)5月1日、甲斐の武田勝頼は1万5千の軍勢を率いて長篠城を包囲した。長篠城主・奥平定昌のわずか5百の兵が籠城したが落城寸前となる。そこで配下の者が決死的な脱出で、岡崎城の家康、信長の援軍を得た。戦いは5月21日設楽原で連吾川を挟み、織田・紱川軍3万8千と3千挺の鉄砲隊と馬防柵の前に武田の騎馬隊が壮絶な戦闘を繰り返し惨敗した。この長篠の戦いで倒れた両軍の武士達の霊を慰めるための行事で鉄砲隊による火縄銃の演武が長篠城で行われている
 天正10年(1582)本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、甲斐、信濃を平定した。天正12年(1584)織田信雄を奉じて秀吉と対決して小牧・長久手の戦いに勝利する。しかし、信雄が人質として、秀康を差出したため収拾し秀吉は権大納言に任命される。北条氏滅亡後、天正18年(1590)8月関東移封で江戸城に入府する。豊臣政権下の五大老筆頭となる。秀吉の死後の慶長5年(1600)関が原の戦いで西軍に勝利する。慶長8年(1603)家康は征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開いた。慶長10年(1605)家康は将軍職を秀忠に譲ると隠居先の駿府城江戸城との二元政治を行い大御所として君臨した。慶長19年(1614)大坂の冬の陣、慶長20年[1615)大坂夏の陣豊臣氏の滅亡を見届けた家康は、元和2年(1616)1月に病に倒れ、3月には太政大臣を任命され、4月17日に亡くなる。

・父:松平広忠 母:伝通院(於大の方) 正室:築山殿 継室:旭姫 側室:西郷局・小督局・阿茶局・蔭山殿 子供:11男5女 在位:2年2ヶ月(1603〜05)、享年75歳 墓所日光東照宮

・家康遺訓「人の一生は重荷を負いて遠き道をゆくがごとし、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし、心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思へ。勝事ばかり知りて、負くる事しらざれば、害その身にいたる。おのれを責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり」

久能山東照宮 元和2年(1616)4月17日江戸幕府初代将軍・徳川家康は晩年を過ごした駿府で死去した。秀忠は家康の遺命によって神格化した東照大権現の遺骸を久能山東照宮に葬る。
日光東照宮  元和3年(1617)2代将軍秀忠により創建した日光東照宮に分霊が勧請され、奥院廟塔に改葬された。家康の遺言は「遺体は駿河久能山に収め、葬儀は芝増上寺で行うこと。位牌は三河大樹寺に立てること。一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建て分霊を勧請し、神として祀ること。そして、八洲の鎮守となろう」と述べている。家康は天海僧正陰陽道の影響を強く受け、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と「八洲の鎮守」いわゆる日本全土の恒久平和を守ろうとしたのである。
 3代将軍家光は、父秀忠の没後の寛永11年(1634)に日光社参し、寛永13年の21年神忌に向けて寛永の大造営が始められ、今日みられる荘厳な社殿への大規模改築が行われた。総奉行は秋元泰朝、作事奉行は藤堂高虎、普請は大棟梁の甲良宗弘一門指揮の下、選抜された宮大工衆が務めた。家光が3代将軍に就任できたのは祖父家康の鶴の一声であると、その敬愛の思慕が「日光を見ぬうちに結構というなかれ」と言わしめる豪華絢爛な建物を造営したと言われている。
・世良田東照宮(徳川氏発祥の地)家光は天海僧正に命じ、秀忠の創建した旧東照宮社殿を徳川氏発祥の地に移築した。家康の祖である徳川義季以下累代の菩提寺・長楽寺の境内に置いた。群馬県太田市の世良田東照宮は、明治8年(1875)の神仏分離令で長楽寺より独立し、昭和31年には唐門・拝殿・本殿が国の重要文化財に指定されている。
芝東照宮
元和3年(1617)芝増上寺の境内地内に創建されたのを起源とする。壮麗な社殿が幾たびか改築されたが、家光お手植えのイチョウの大木を残して、東京大空襲で焼失した。
上野東照宮 上野東照宮寛永4年(1627)寛永寺となる藤堂高虎下屋敷地内に創建された。現在の社殿は慶安4年(1651)三代将軍家光が改築したもので、数年かけた修復工事を終えて平成26年から公開されている。