小倉城(通算1550日 (1550日間継続中))

<今日の江戸学>
小倉城は、関ケ原戦後に豊前・豊後40万石の太守となった細川忠興が築城。同家の熊本転封後は、江戸時代を通じて徳川家外戚の小笠原家の居城に。慶応2年(1866)、第2次長州戦争の敗勢で撤退する際に火を放ち、城は焼失。現天守は昭和の再建。
小倉城の歴史は、戦国末期(1569年)、中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いた。その後、高橋鑑種や毛利勝信が居城し、関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興によって、1602年に本格的に築城が始まり約七年の歳月を要した。忠興は城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工業保護政策を実施。外国貿易も盛んにし、同時に祇園祭りも誕生させた。
 細川氏熊本転封の後には、播磨国明石から細川家とは姻戚関係にある譜代大名小笠原忠真が、1632年に入国。小倉・小笠原藩は、将軍・徳川家光から九州諸大名監視という特命を受けた。この時期、小倉は九州各地に通ずる街道の起点として、小倉城は一層充実し、城下町も繁栄した。小笠原忠苗の時期には、城内下屋敷に泉水を持つ回遊式庭園もつくられている。しかし、1837年城内から発した火災によって全焼。2年後に再建されたが、天守閣は再建されなかった。幕末期になると、小倉は長州藩を攻める第一線基地となり、その中で小倉と熊本藩は勇敢に戦ったが、他の九州諸藩の兵には積極的な戦意がなく、ついに1866年、自ら小倉城に火を放って戦線を後退させた。明治10年西南戦争の際には、小倉城内に駐屯していた歩兵第14連隊が、乃木将軍に率いられて出征した。その後は、歩兵第12旅団や第12師団の司令部が城内に置かれた。太平洋戦争後は米国に接収されたが、1957年に解除され、1959年市民の熱望によって天守閣が再建された。この天守閣は「唐造りからづくりの天守」と呼ばれ、四階と五階の間に屋根のひさしがなく五階が四階よりも大きくなっているのが特徴的です。また、城の石垣は切り石を使わない野面積みのづらづみで、素朴ながらも豪快な風情にあふれている。(「小倉城HP」より引用)
・細川 忠興は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。足利氏の支流・細川氏の出身である。正室明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。足利義昭織田信長豊臣秀吉徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎)としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。
・小笠原 忠真は、下総国古河城に生まれる。徳川秀忠から偏諱を授かって忠政と名乗り、晩年に忠真と名を変えた。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で父と長兄・忠脩が戦死したため、総領家の家督を相続することとなり、信濃松本8万石を領した。後に播磨明石10万石を経て、豊前小倉15万石に移封された。島原の乱の際には長崎守備の任を果たした。剣豪・宮本武蔵が最も長く仕えたといわれる。大名茶人でもあり、同地の茶湯隆盛の基盤を築いた。上野焼の育成に尽力した外、茶人の古市了和を召し抱えて小笠原家茶道古流を興した。