江戸城天守閣

<今日の江戸学>
江戸城天守閣は、慶長12年(1607)家康、元和9年(1622)秀忠、寛永15年(1637)家光と3回建築されている。特に三代将軍家光の代に江戸幕府の権威を象徴するわが国最大の寛永天守閣が完成した。
寛永天守閣 その天守は地上から高さ58mにあり、天守台の礎石は44m四方、高さ18mで天守の上に金色の鯱をいただく外観五層、内部六階の寛永天守が聳えていた。壁面は白漆喰よりも防火に優れた黒い錆止めを塗布した銅版を用いている。
・慶長天守(家康)慶長8年(1603)江戸幕府が開府して江戸城大改修工事が始まり、慶長11年(1606)黒田長政によって築造された天守台礎石の上に翌12年に初代の江戸城天守閣が完成した。征夷大将軍の居城である江戸城は防御施設の役割よりも権威の象徴として諸大名に家臣や民衆から崇められることを目的としていた。
・元和天守(秀忠)元和9年(1622)二代将軍秀忠は、父家康の建てた慶長天守を破却して、新たな天守閣を現在の天守台のある場所に建て替えた。
寛永天守(家光)寛永15年(1637)三代将軍家光は、父秀忠の建てた元和天守を破却して、前天守を上回る木造建築では世界最大といわれる壮大な天守を築いた。さらに承応2年(1653)にも天守を改造したが、明暦3年(1657)明暦の大火で焼失した。その天守は地上から高さ58mにあり、天守台の礎石は44m四方、高さ18mで天守の上に金色の鯱をいただく外観五層、内部六階の寛永天守が聳えていた。壁面は白漆喰よりも防火に優れた黒い錆止めを塗布した銅版を用いていたそうだ。
・四代将軍家綱の時代、明暦3年(1657)1月の大火で城下の多くが焼失、延焼した本丸御殿、天守閣も火災旋風で焼失した。翌年天守を再建すべく加賀藩前田綱紀の手伝普請によって、瀬戸内海の天領小豆島や犬島産の花崗岩御影石)の礎石で天守台を築いた。再建された天守台礎石の高さはこれまでの7間から5間半と3mほど低くなっている。現在の天守台に見える花崗岩の焼跡は、文久3年(1863)本丸御殿焼失時のものだが、明暦の大火で焼跡の残る天守礎石(伊豆石)は移設した中雀門で見ることができる。
 しかし、家綱の後見人で叔父にあたる幕府重臣保科正之(秀忠の4男)が、「戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、眺望を楽しむだけの天守に莫大な財を費やすより、城下の復興を優先させるべきである」との提言で以後再建されることはなかった。