「唐津くんち」

<今日の江戸学>
◆佐賀唐津の曳山展示場にある、江戸時代から続く唐津神社秋季例大祭唐津くんち」の曳山。いずれも和紙を200枚以上貼り重ねて何層もの漆で塗り固めたものである。現存14基のうち9基が江戸時代のもの。記録が残る「鳳凰丸」は何と製作費1750両。
唐津くんちは、佐賀県唐津市にある唐津神社の秋季例大祭である。乾漆で製作された巨大な曳山(ひきやま)が、笛・太鼓・鐘(かね)の囃子にあわせた曳子(ひきこ)たちの「エンヤ、エンヤ」「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声とともに、唐津市内の旧城下町を練り歩く。祭り期間中の人出は延べ50万人を超える(唐津市の統計による)。昭和33年(1958年)に曳山14台が佐賀県の重要有形民俗文化財に、さらに昭和55年(1980年)には「唐津くんちの曳山行事」が国の重要無形民俗文化財に指定された。豪華な漆の工芸品の曳山は、現代の制作費に換算すると1〜2億円に上るといわれている。
 唐津神社の神職を務める戸川家の口碑によると、神輿の御神幸は寛文年間(1661年-1672年)に始まったとされる。今日の神幸行列のように曳山がこの祭りに登場するのは、一番曳山(いちばんやま)の「赤獅子(あかじし)」が文政2年(1819年)に奉納されてからのことである。以後、曳山は明治9年(1876年)までに15台が製作されているが、うち1台は消失し、今日奉納されているのは14基である。現存14基のうち9基が江戸時代のもの消失した曳山は紺屋町が製作した「黒獅子」で、明治22年(1889年)が最後の巡行となった。本来の「くんち」は、唐津神社の縁起にあわせて旧暦9月29日の本祭(現在の本殿祭と神幸祭(御旅所神幸)とからなる)を中心として営まれていたが、暦制の変更に対応して、大正2年(1913年)には本祭が新暦10月29日に、町廻りが翌30日に変更された。10月28日に行われていた「前夜祭」(のちに「宵曳山」に名称変更)が正式行事に加わったのは昭和37年(1962年)からである。一般には、曳山の巡行をともなうこの11月2日からの3日間が「唐津くんち」と呼ばれるようになっている。

<今日のニュース>
・復旧へ「課題」 ガレキやゴミ”行き場”なし。
 南阿蘇村では捜索が再開された。天気が回復し町の人は早朝から家の片付けを行われた。地震で崩れた住宅などから出たガレキやゴミは仮置き場に運ばれた。分別されまとめられている。益城町では1026棟が全壊し、4374棟が半壊、一部破損した。神戸市など8つの自治体から清掃車など31台が派遣されることが決まった。しかしガレキなどの処理のめどは立っていない。生活ゴミの処理も深刻化している。
熊本地震 被災地に広がるテント。
 熊本地震で48名が死亡し、今も2人が行方不明となっている。さらに熊本県によると、避難生活による体の負担や病で亡くなった人は11人、避難者数は8万人、地震回数は811回にのぼる。熊本・益城町の展示施設の駐車場では、テントで生活する人が増えている。車の中で避難生活を続ける人もおり、車の中の生活ではエコノミークラス症候群が心配される。雨のときのテント内は厳しい環境であり長くこの生活をするのは大変である。