中村屋サロン美術館

美術検定2級からの出題問題。
 多くの芸術家を支援した相馬夫妻が明治末に創業した店の名前は何ですか。 1)中村屋 2)伊東屋 3)木村屋 4)白木屋
 ・正解は中村屋
 ・解説 2014年10月29日、中村屋は「新宿中村屋本店」を建て替え、商業ビル「新宿中村屋ビル」を開業した。この地は1909年に東京・本郷から 本店を移転して以来、発展の要となってきた場所であり、また、明治末から大正、昭和初期にかけて多くの 芸術家・文化人たちが集った場所で もある。中村屋の創業者である相馬愛蔵・黒光夫妻は、愛蔵と同郷の彫刻家 荻原守衛(碌山)や荻原を慕う若き芸術家などを支援した。彼らは 中村屋を舞台に切磋琢磨し、才能を開花させた。その様子は後にヨーロッパのサロンに例えられ、「中村屋サロン」として日本近代美術史にその 刻まれており、中村屋のイメージに芸術・文化の薫りを添えた。新宿中村屋ビル3階に「中村屋サロン美術館」としてギャラリーを開設した。現 在、中村不折展が行われている。
 ・中村 不折(なかむら ふせつ、1866年8月19日(慶応2年7月10日) - 1943年(昭和18年)6月6日)は明治、大正、昭和期に活躍した日本の洋画 家、書家である。夏目漱石吾輩は猫である』の挿絵画家として知られている。(参考http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130819

◆「伏見は“日本の首都”だった!?」(2016年5月7日放送 19:30 - 20:15 NHK総合ブラタモリ」)
 タモリらが伏見稲荷大社を訪れお参りした。ここは外国人が選ぶ日本の行きたいところ2年連続1位で千本鳥居が有名。お参りを済ませた後、通り抜けると願いが叶うという千本鳥居を通った。前回の嵐山編に引き続き、京都街歩きガイドの梅林秀行さんが登場。今回の旅のお題は「伏見は“日本の首都”だった!?」だが、かつて伏見は桃が咲く山で、天下統一を果たした豊臣秀吉伏見城を築いた。京都の風景を描いた洛中洛外図屏風には伏見城が描かれている。豊臣秀吉といえば、大坂城が有名だが、大坂城は豊臣家のプライベートな城で、豊臣政権としてのオフィシャルな城は伏見城だった。だからこそ当時は安土桃山時代と呼ばれている。
 タモリらがかつて伏見城があった伏見城跡を訪れた。伏見城は江戸時代に徳川幕府によって壊されてしまったが、現在は遊園地のシンボルとしてつくられた天守がある。遊園地は閉園していて天守だけが残っている。天守は非公開で入れない。タモリらがかつて伏見城があった伏見城跡にある天守に潜入。天守は非公開で一般人は入れない。撮影当日は雨だったが、天気の良い日だと高さ32mの天守から京都市街地を一望でき、京都タワーも見ることができる。京都盆地だけでなく、大阪・奈良まで見渡すことができ、豊臣秀吉が伏見を首都にした理由がわかった。
 400年前の伏見城!一体どんな城だった?/伏見は“日本の首都”!?タモリ大興奮!秀吉の城
伏見城跡に現在ある天守は、当時は御花畑山荘が建っていた場所にあり、当時の本丸跡は明治天皇陵の一部になっている。本丸跡の手前にある北堀跡をタモリらが訪れた。堀底は現在テニスコートになっている。堀は直線で幅150m、深さ15mで江戸城最大の堀に匹敵する大きさ。自然の地形を利用しない巨大な堀は豊臣秀吉の権力の証となっていた。伏見城は1年未満で作ったとみられる。
 伏見城下町は伏見城があった丘から緩やかな斜面が続いている。伏見城下は低湿地で人が住むのに適さなかったので、斜面に町を作らざるを得なかった。豊臣秀吉は伏見に真っ直ぐな道を作ったが、無理に直線で作っているので道がうねってしまっている。通常は道がうねらないように等高線に沿って道を作るので、道が直線ではなく左右にうねる。自然に逆らってまで直線で道を作ったところに豊臣秀吉の天下人としてのこだわりがあった。
 タモリらが伏見城跡近くの斜面を訪れると、電柱に「桃11」と書かれていた。電柱に書かれた地名はその場所の歴史や特徴をよく表しており、千駄ヶ谷の徳川邸があった所の電柱には「徳川」と書かれているとタモリが豆知識を披露した。伏見の斜面を造成した広大な敷地にはかつて福島正則毛利輝元の大名屋敷があり、桃山福島太夫西町など現在の地名としても残っている。古地図を見ると伏見に大名が集まっていたのがわかる。黒田節で有名な母里太兵衛が槍をもらった場所である福島正則邸もこの辺りにあったとみられる。
 タモリらが伏見にある室町時代から続く老舗和菓子店を訪れた。豊臣秀吉が絶賛したという羊羹作りを見学し、タモリが羊羹切りに挑戦した。羊羹は1寸(約3cm)に切りそろえられる。秀吉が絶賛したのは現在販売されている練り羊羹ではなく、蒸し羊羹だったといわれる。蒸し羊羹は秀吉の時代に最高級の和菓子だったが、日持ちが悪かったので、改良されて練り羊羹が江戸時代にこの店で誕生した。秀吉が絶賛した蒸し羊羹が店の人によって再現され、食べたタモリらは食感が違ってモチモチして美味しいと感想を話した。
 タモリらが宇治川の南側の地域を訪れた。この辺りの町屋には、鍾馗と呼ばれる魔除けの瓦人形が多く見られる。周りよりも5m高い道があり、かつては4kmも続いていたという。当時は巨大な巨椋池があり、奈良と伏見を結ぶために道を作った。その道は太閤堤と呼ばれたという。巨椋池は昭和初期に水が抜かれ、現在は残っていない。秀吉は太閤堤を作るだけでなく、淀川と宇治川を直結させ、水陸双方で伏見を物流の拠点とした。
 豊臣秀吉伏見城跡の南側にある丘に指月城を作ったといわれていたが、去年、城のあった辺りから金箔の瓦が出土し、幻の城と言われていた指月城の姿が明らかになった。指月城は大地震で築城後2年で崩れたといわれている。豊臣秀吉は指月城にいた頃に伏見愛を歌った短歌を詠んでいる。秀吉は晩年の5年間を伏見で過ごした。指月城のあった場所からは豊臣秀吉が見ていたであろう巨椋池を含んだ伏見の街が一望できたようだ。