ブログ通算1580日 (1580日間継続中)

◆今日は日曜日。母の日であり、花が好きな母親にカーネーションの鉢植えをプレゼント。そして、朝から週末介護・週末農業。特にこの土日は、夏日であり、草取りと水撒きに追われる。とうとう週末農業のリスクを迎える季節になってきましたね。
 明日から本格的な仕事ですね。今週は明日から天気も悪いみたいです。夏日を迎えたり、気候の変化も激しそうなので、体調管理には万全を期したいものである。

徳川家康、秀忠、そして徳川家霊廟・芝増上寺御霊屋。
●初代家康
 征夷大将軍。1603年に家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開く。この将軍任官には室町幕府最後の将軍・足利義昭の遺言だったという説がある。信長や秀吉も将軍職を望んだが、足利義昭が存命中は補任できずに、信長は右大臣、秀吉は関白に補任された。義昭が大和国で牢人をしていたときに家康が扶助し室町幕府の重宝を譲渡された。また義昭は1597年に死去するに当たって家康が将軍職を相続するよう遺言があったと「当代記」に記されている。
 竹橋の国立公文書館で、「徳川家康」展を見学①いくさ人 家康 ②秀吉と家康 ③天下人への道 ④家康の文教政策 ⑤家康と秀頼 ⑥家康の死と神格化 ⑦関東・幕府の鎮守から信仰の道へ ⑧家康をとりまく女性たち のジャンル別に古文書が展示されていた。これは「いくさ人家康」のコーナーにある「朝野旧聞裒藁 (ほうこう)」から「多聞院日記」で家康と秀吉の関係を記され、秀吉が家康の手を取り「対面時は丁寧に礼をしてくれ」と頼んだようである。また、家康が征夷大将軍になって、三河遠江の寺社に発給した寄進状には「源家康」のご朱印が押されていた。今の静岡県清水区辺にも隠居所を作る計画があったようである。
 ライバルへの対処。・寺領寄進状・社領寄進状を発給し、寺社と神社に対し、旧領を安堵し、動揺を抑えている。・「御触書」(吉宗が編集を命じた。全51冊)。「武家諸法度」−−武家全体が守る基本法。全13箇条。諸大名を伏見に集め秀忠の名で以心 崇伝が読み上げた。・「禁中並公家諸法度」−−朝廷統制の要となる法。全17箇条。天皇上皇・諸公家・親王家・諸門跡の役儀・身分・服制・序列等が定められている。
 ・江戸城内に「富士見の亭」に文庫設置し、金沢文庫鎌倉時代の武将・北条実時創設)の蔵書も収納。
 ・伏見城江戸城駿府城に収蔵した書籍の出版を進めた。伏見版、駿河版。
 ・「群書治溶要」(唐の太祖が編纂させた政治の参考書)
 ・家康の愛読書「吾妻鏡」。鎌倉幕府の歴史を書いた「新刊吾妻鏡」は愛読書。
 ・古記録の所在調査・収集。歴史書法律書儒学書・兵法書天皇家・公家・寺社に伝わる転籍や古記録を調査させ、京都南禅寺の僧侶らに書写させ、蒐集した。
 ・医学書・薬学書を愛読。
 大阪冬の陣・夏の陣 70歳、二条城の秀頼との会見。「秀頼はかしこき人なり。中々人の下知など受くべき様子にあらず」。秀頼が15歳から20歳までのうちに天下を治めるに足る器量であれば、家康が秀頼に天下と、秀吉から贈られた「馬印」を返す約束があり、この誓紙に血判し秀吉の棺に入れた。(片桐家秘記)
 夏の陣:真田信繁の出城・真田丸。真田隊が家康本陣に突入。
 秀吉「一度攻めた後、和議を結び、和議の条件として堀を埋めさせ、その後再度攻めれば良」と家康に大阪城の攻略法を語った。家康はそのとおりに実行(「武辺雑記」)
 家康の神号。明神か、権現か。秀吉は豊国大明神。(崇伝)家康は東照大権現。(天海)
 徳川家康は、深謀遠慮をもって、幕府の礎を築いた。鎌倉幕府を開いた源頼朝が「このたびのことは天下の草創なり」と言ったように、天下を草創した。(参考http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20160402
●二代将軍秀忠は、天正7年(1579)家康の三男に浜松城で生まれる。幼名長松・竹千代。12歳の時豊臣秀吉より一字をもらい秀忠と名乗る。戦国武将は武勇に優れ、気骨ある性格をわが子に望むが、秀忠は幼少期からもの静かで父家康の教えに従順に従うものであった。「何事も大御所様の仰せのままに」で一貫して偉大な父を律儀に立て、その主体性のなさに泥人形と揶揄されることもあった。秀忠は関ヶ原の合戦で3万8千の大軍勢を率いて寄り道、2千人が籠城する上田城攻めで敗戦。関ヶ原の戦いに間に合わず家康から激怒され、戦国武将としては影の薄い存在であった。慶長19年(1614)大阪冬の陣では、汚名返上とばかりに江戸から強行軍を続け、伏見城に着くと秀忠の軍勢は疲労困憊で戦どころではなかった。またもや家康の逆鱗に触れたのである。
 慶長10年(1605)4月に秀忠は征夷大将軍に就任、父家康は駿府で大御所として隠居する。秀忠は徳川家直轄地と譜代大名を統治し、駿府城の家康は外様大名の接渉を担当する二元政治体制をとった。しかし、家康が亡くなると豹変、家康が存命時に構想していた改易転封による大名統制、キリスト教弾圧、貿易統制を強化するなど、幕府の地盤を固めた二代目としての功績は大きい。正室お江与の方は大変嫉妬深い性格で、恐妻家の秀忠は正式な側室を置かなかった。お江は念願の嫡男・竹千代(家光)、次男・国松(忠長)を授かる。だが、秀忠はお静の方との間に思いがけず男児・幸松(保科正之)を授かるが、お江の逆鱗に触れてはならぬと、認知せず密かに武田家の家臣筋である譜代大名・高遠藩保科正光の実子とした。親子の対面が叶ったのはお江与の死後である。
 秀忠には二代将軍の座を争った福井75万石を領する異母兄・結城秀康がいた。秀康の死去により嫡男忠直が跡を継いでいたが、江戸への参勤を怠るなど精神疾患が噂され、家臣団が恐慌状態になる所業を黙殺できず改易とした。この頃、家光に将軍職を譲るための上洛の日が迫っており、徳川家内部の不安を抱えた忠直の改易に踏み切ったのである。秀忠は元和9年(1623)家光に将軍職を譲るが、律儀に父家康に倣って大御所となり実権は手放さず、西ノ丸対本丸の二元政治を行った。寛永8年には溺愛していた次男忠長の領地を召し上げ蟄居を命じる。この頃から秀忠は体調を崩し伏せるようになり、翌寛永9年(1632)1月24日死去。享年54歳。
父:徳川家康 母:(側室)宝台院(西郷局) 正室:小姫・お江 側室:お静 在位:18年3ヶ月(1605〜23) 徳川宗家 享年:54歳 墓所:芝増上寺
●徳川家霊廟・芝増上寺御霊屋
 増上寺は関東での正統念仏道場として、明徳4年(1393)に江戸貝塚紀尾井町)に創建した。家康の入府を受け江戸城拡張とともに増上寺は慶長3年(1598)家康によって芝へ移された。徳川家の菩提寺として、江戸城北東の鬼門である上野忍岡に天台宗寛永寺を、裏鬼門の南西の芝に浄土宗増上寺をそれぞれ対角線上に配置した。芝増上寺には2代秀忠(台徳院)、6代家宣(文昭院)、7代家継(有章院)、9代家重(惇徳院)、12代家慶(慎徳院)、14代家茂(昭徳院)の六代将軍。崇源院、皇女和宮、天英院、広大院、天親院の5名の正室、家宣の父綱重(清揚院)、綱吉の生母(桂昌院)、家宣の側室(月光院)、家斉の側室(契真院)、家慶の側室(見光院・殊妙院)、その他将軍ゆかりの35名の墓所である。
 増上寺本堂を中心に歴代将軍の御霊を祀るために造営された墓所・本殿・拝殿が配置されている。その建造物は当時の最高の技術が駆使され、日光東照宮に劣らぬ厳粛で壮麗な霊廟は、いずれも昭和5年(1930)国宝に指定され、東京で有数の観光寺院であった。しかし、昭和20年(1945)3月10日、北御霊屋が被災、5月25日には南御霊屋が被災、二度にわたる東京大空襲で壮麗な霊廟は灰塵と化した。
 台徳院霊廟は、寛永9年(1632)二代将軍秀忠の墓所として、三代将軍家光が増上寺境内の南側に造営した壮大な建築群である。昭和5年(1930)国宝に指定されたが、昭和20年(1945)5月の東京大空襲で南側28棟が焼失した。この台徳院霊廟の十分の一模型は、明治43年(1910)ロンドンで開催された日英博覧会東京市の展示物として出品、博覧会終了後に英国王室に寄贈し、、ロイヤルコレクションの一つとしで保存されていた。平成27年(2015)は、徳川家康公没後400年あたる記念すべき年で、英国王室の厚意により秀忠公霊廟模型の長期貸与が実現し、緻密な修復作業を終え増上寺の宝物展示室で閲覧可能となった。寛永9年(1632)霊廟造営が始まり、台徳院奥院の覆屋の中に祀られた宝塔は、最高の技術者が動員され、装飾華麗で当時の粋を尽くしたものだったが、木造のため戦災で焼失した。秀忠公は宝塔下の石室に埋葬されていた。
 徳川将軍家霊廟は御霊屋とも呼ばれ、増上寺大殿を挟んで南北に墓石群が配置されていた。昭和20年の空襲で大半が焼失、昭和33年(1958)7月から35年1月まで被災で荒廃した墓地を文化財保護委員会が中心となって綿密な学術調査をおこなった。。6人の将軍の正室・側室・子女多数が地中深くの石室に甕棺が安置されていた。将軍家の埋葬方法は、男性は衣冠束帯で胡坐姿、女性は十二単の正座姿であった。遺体の保存状態は良くなかったが、土葬の御遺体は東京・桐ケ谷斎場で荼毘に付され、昭和39年(1964)安国殿裏手の現墓所に集められ改葬された。