いつもの週末

◆いつもの週末。今日も暑い一日ですね。午後から実家へ。部屋の掃除、洗濯、草取り、水撒き、夕食の支度・片付け、水撒き、洗濯。そして一番大事な母親からのウイークリーレポート。

◆目黒区碑文谷の円融寺釈迦堂は室町初期の建立で、23区内最古の木造建築。同寺は元禄期には日蓮宗法華寺だったが、幕府は他宗徒の布施を受けず供養を行なわない同宗「不受不施派」を邪宗門として禁じたため、天台宗に強制改宗され、円融寺と改名。
・梵鐘の銘文
 寛永20年(1643年)九月、山城国の飯田善兵衛宗次の作であるが、実は同じ年の同じ月に同じ作者が造った鐘が、幸田露伴の名作『五重塔』で知られる谷中の感応寺(現、天王寺)にもあった。こちらのほうは現存していない。それでは、なぜ同年同月、同作者の手になる鐘があったのか。その疑問を解く鍵は、梵鐘の銘文に刻まれた「寄附主 日長」という人物にある。
 日長は感応寺第九世の住持をつとめた日蓮宗の僧であるが、その生涯については弟子の日純が伝記を残している。日長は天正13年(1585年)武州荏原郡衾(ふすま)村に誕生し、幼い頃に法華寺(現、圓融寺)第九世の日楊にまみえた時、非凡の相があると見込まれ、僧侶の道を歩むことになった。下総香取郡の飯高檀林(僧侶学校)に入り、檀林を出た後は、駿河の妙蔵寺(現、妙像寺)の住持になった。その時、徳川家康の側室であるお万の方(養珠院)とお加知の方(英勝院)は熱烈な法華信仰をもっていたことから日長に帰依をし、家康没後、その二人の推挙により、元和七年(1621年)に谷中感応寺の第九世住持になった。不受不施の義をめぐり身延山久遠寺池上本門寺との間の論争がますます激化の一途をたどっていた頃であり、やがて寛永六年(1629年)から翌年にかけて、幕府がそれを判決する事態にまで発展した。幕府の判決によって不受不施の立場をとる池上本門寺の日樹をはじめ、その傘下にあった諸寺の僧侶たちが追放に処せられた。
 法華寺も身延に抵抗する関東不受不施派の中核的存在であったため、当時住持であった日進が信州上田に追放になり、以後住職は断絶し、伽藍は退廃した。そこで徳川家光の外護のもと、境内の整備や植樹、さらには感応寺の末寺を法華寺に与えるなどして復興に力の限りを尽くした。寛永20年の二つの梵鐘も、まさに日長による復興事業の一環で鋳造され、一つは感応寺の鐘となり、もう一つは法華寺へ寄進された。