曲直瀬道三。

後北条氏菩提寺である小田原の早雲寺にある、3代曲直瀬(まなせ)道三の墓所。初代道三は、後陽成天皇や足利将軍義輝・織田信長豊臣秀吉徳川家康らを診療した、日本医学中興の祖。歴代道三は徳川将軍家典薬頭を務め、3代目も秀忠の侍医を。
・曲直瀬道三とは・・・道三の本姓は堀部、道三は1507年京都の堀部左門親真の長男として生まれた。道三は生まれてすぐ両親を亡くし、伯母に養育された。10歳で天光寺の僧になり、相国寺に移り”等皓”と称して修行。相国寺といえば漢字で有名。ここでの修行中に学問に興味を持ち、勉学に励み、22歳の時、道三は足利学校へ入学。ここで出会い、後に師事する田代三喜の影響で医学の道へ。田代三喜がちょうどその頃足利学校をやめて古賀(茨城県)へ移住した為、道三も後を追いかけ古賀へ。道三は三喜から当時最先端の医学だった「李朱医学」を徹底的に教わっている。
 1545年に京都に帰った道三は啓迪院(けいてきいん)という医学の専門学校を設立。道三の名前が全国に広まったのは1559年のこと。難病で命の危機に陥ってた大名・毛利元就を診療結果、見事に全快。このときの治療法をまとめたのが『雲陣夜話』。この書には美食家だった元就が高血圧に悩まされていたことが書かれている。これをきっかけに道三の名声は日本中の武将の間に一気に拡散。細川氏から将軍足利義輝まで道三に診療を願ったとか。あの織田信長までもが道三の忠告には耳を貸したようです。この道三を一番気に入ったのは長寿に非常に興味を持っていた豊臣秀吉。秀吉は大坂城築城後、道三を主治医にしている。
 その後、道三は1594年、87歳で亡くなるが、妹の子供を養子にとり、代曲直瀬道三を継がせてる。2代目の名前は曲直瀬 玄朔(まなせ げんさく)。玄朔は曲間瀬診療所を設立。玄朔もかなりの名医だったようで秀吉の側室淀殿の主治医を務めた。1603年、淀殿が原因不明の病気でかかった時のカルテが今でも残ってるそうで、そこには「ヒステリー気味で飲食を断り、目まいに苦しむ」と書かれてる。今で言う「うつ病」と診断したようである。その後江戸時代も曲直瀬一族は名医の家筋として栄えている。
 ・「医学天正記」・・・ 医学天正記は天正年間の曲間瀬診療所のカルテのことであり、このカルテが曲間瀬診療所が「日本一の診療所」と呼ばれる理由。このカルテには天皇家や徳川家など当時の支配者の名前が数多く記されている。例えば三好秀次は精神分裂症で、躁うつ病の傾向があったとか豊臣秀頼は虚弱体質だった とか。このカルテには性格などまで詳細な記録が残されている。

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