近藤守重(重蔵)とは

<江戸学>
◆東京北区の正受院には、江戸中後期の幕臣で探検家の近藤守重(重蔵)の石像がある。重蔵は幕命で蝦夷地を調査、択捉島に「大日本恵土呂府」の木柱を建立。甲冑をまとった石像は、その時の姿を谷文晁の下絵により再現されたものである。重蔵の書斎は当時、正受院の隣にあったそうだ。
近藤守重(重蔵)(こんどう じゅうぞう、明和8年(1771年) - 文政12年6月16日(1829年7月16日))は、江戸時代後期の幕臣、探検家。間宮林蔵平山行蔵と共に“文政の三蔵”と呼ばれる。父の隠居後の寛政2年(1790年)に御先手組与力として出仕。火付盗賊改方としても勤務。寛政6年(1794年)には、松平定信の行った湯島聖堂の学問吟味において最優秀の成績で合格。寛政7年(1795年)、長崎奉行手付出役、寛政9年(1797年)に江戸へ帰参し支払勘定方、関東郡代付出役と栄進。寛政10年(1798年)、幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱。4度蝦夷地(北海道)へ赴き、最上徳内と千島列島、択捉島を探検、同地に「大日本恵土呂府」の木柱を立てる。松前奉行設置にも貢献。蝦夷地調査、開拓に従事し、貿易商人の高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させる。享和3年(1803年)、譴責により小普請方。文化4年(1807年)にロシア人の北方侵入(フヴォストフ事件、文化露寇)に伴い再び松前奉行出役となり五度目の蝦夷入り。その際利尻島や現在の札幌市周辺を探索。江戸に帰国後、将軍・家斉に謁見を許される。その際札幌地域の重要性を説き、その後の札幌発展の先鞭を開いた。

<今日のニュース>
◆「父の日」に父親が掃除などを学ぶ講習(NHKニュース12時22分)
 父の日の19日、父親が掃除や洗濯などの家事について学ぶ「1日家事スクール」が東京・中野区で開かれた。この催しは、小学生の放課後の預かり教育などをしている団体が、父親に家事を通して家族とのコミュニケーションを図ってもらおうと開いたそうである。掃除についての講座では、ぞうぎんがけのコツとして、腰を低くして手のひらにしっかりと体重をかけることが大切だと説明を受けたあと、リレー形式のぞうきんがけに臨みました。また、洗濯の講座ではTシャツを素早くきれいにたたむ方法や、しわができないようにアイロンをかける方法を学び、実践した。父親たちは慣れない家事に四苦八苦しながらも真剣な表情で取り組んでいた。8歳と3歳の子どもがいる39歳の男性は「きょうはお祝いしてもらう立場だと思っていたので、勉強してこいと言われてびっくりしたが、楽しく学ぶことができた。アイロンがけは苦手だったので勉強になったし、頑張らなければいけないと思った」と話していた。また、5歳と1歳の子どもがいる42歳の男性は「ふだんは妻に任せっきりになってしまっているので、こういった機会を生かして今後は積極的に家事に参加していきたい」と話していた。