今日で6月も終わり。寛永寺から上野公園を歩く②

◆明日から7月に入る。まだ梅雨明けもならず、じめじめした日々かな。すでに、真夏日も迎えており、今年の夏は猛暑かな。

寛永寺から上野公園②
●「国際子ども図書館
 国際子ども図書館は、平成12年に日本初の児童書専門の国立図書館として設立された。国際子ども図書館の設立は、最近ですが、使用している建物は歴史があります。国際子ども図書館の建物は、もともと明治39年に帝国図書館として建てられ、昭和4年に増築された建物を利用したものです。
 戦後、帝国図書館国立図書館と名称が変わり、昭和23年に国立国会図書館が創設されて、その支部図書館となってからは平成10年まで支部上野図書館の施設として使用されました。この建物はルネサンス様式を取り入れた明治の洋風建築の代表作のひとつで、久留正道により設計されました。東京都選定歴史的建造物に指定されている。当初は、もっと大規模の建物にする予定でしたが、日露戦争がはじまったため、第1期工事分つまり最初の計画の3分の一が完成した状態のままで中止となってしまったそうです。その後、昭和4年に増築され、平成になって、 国際子ども図書館に転用されるにあたり安藤忠雄氏の設計により改修が行われ、東側にガラスのエントランスが、西側にはカフェテラスが付け加えられた。
小泉八雲記念碑 
 国際子ども図書館の前庭に「小泉八雲記念碑」がある。この記念碑は、小泉八雲東京帝国大学時代の教え子であった詩人の土井晩翠が、結核のため23歳でなくなった長男英一の遺言に基づいて、小泉八雲を偲んで建てたものだそうです。昭和10年に建てられました。碑は八雲の肖像のレリーフを正面をはめ込み、上部に壷を囲む天使達の群像がいる噴水になっています。両脇には「文盡人情美」「筆開皇國華」という言葉が刻まれています。そして、裏面には、小泉八雲の略歴を書いたあと「先生ヲ景仰セル土井英一ノ遺言ニ因リ父林吉松本喜一ト相謀リテ此記念碑ヲ帝国図書館ニ建ツ」と、土井晩翠の長男の土井英一に遺言に基づいて、父の土井林吉が記念碑を建てた旨が刻まれています。林吉(りんきち)とは土井晩翠の本名です。

●黒田記念館
 国立博物館の西側で、昨日紹介した国際子ども図書館の南隣にあります。黒田記念館とは、日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝の遺作を展示している記念館です。黒田記念館は、大正13年に没した黒田清輝の「遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるように」という遺言をうけて岡田信一郎設計により昭和3年に竣工しました。館内には、遺族から寄贈された遺作を展示するための黒田記念室が設けられました。 平成13年には、記念室にくわえてギャラリーを増床し、リニューアルオープンしました。黒田記念館では、黒田清輝の有名な『湖畔』をはじめとした油彩画126点、デッサン170点のほか写生帖、書簡などを所蔵し,作品を展示しています。重要文化財の「湖畔」が直に見られて感動します。黒田記念館の外壁は、スクラッチ・タイルで覆われています。スクラッチタイルというのは、表面に引っかいた(スクラッチ)筋が入っているので、こう呼ばれます。ライトが設計した帝国ホテルに用いられたことから、昭和初年頃の建物によく用いられたそうです。また、入口の扉の上部には篆書で「黒田記念館」と書かれている。

博物館動物園駅 
  黒田記念館の向かい側に、昔の京成電鉄博物館動物園駅の駅舎があります。ほとんどの人が振り向かないと思われる建築物ですが、「博物館動物園駅」は、昭和8年京成本線開通にあわせ開業しましたが、平成9年に廃止となりました。
 そのため、現在は使用されていませんが、地下にはホームがまだ残っているとのことであり、駅舎もユニークな建物であるため、残されています。 
 京成電鉄は、名前の通り、東京と成田を結ぶ鉄道です。
 大正元年に押上・江戸川間と高砂・柴又間が開通し、大正15年に成田まで開通しました。
 最初、始発駅は、浅草の予定でしたが、最終的には、上野へ乗り入れることとしました。そして、昭和6年には青砥・日暮里間が開通しました。
 そして、日暮里・上野間は、多くの建物が建ち並んでいるため地下を通すことになりました。しかし、国立博物館の土地は宮内省管轄の土地であったため、その地下に民間鉄道を通すためには、枢密院会議の了承が必要でした。そこで、昭和8年3月8日の枢密院会議に架けられ、全員一致で可決されました。そして、昭和8年12月10日に日暮里・上野間が完成しました。この時に、「博物館動物園駅」も開業しました。上野・日暮里間は地下を通っていますが、工事は地上から掘っていったようです。ちなみに、京成本線は、駅舎の建物と黒田記念館の間の道路の下を通っています。ところで「博物館・動物園駅」の駅舎は、地下を通ることを了承した枢密院の建物に似ている。

●旧上野動物園正門
 昔の上野動物園の正門が残って言いることを知っている人はあまりいないだろうと思います。この正門は明治44年に建てられたものです。現在は、一般には使用されていませんが、皇族方が来園する際には開門されるそうです。左右にあるのは門番の小屋で、先にあるのが切符売り場です。ちなみに正門の名称は、この門だけにしか使われていないそうで、現在、チケットを販売している上野公園に面した門は「表門」と呼ばれています。旧正門から、動物園の中を見ると、少し先に、墓地が見えます。上野動物園はもともと藤堂高虎下屋敷に建てられた藤堂家の菩提寺「寒松院」があった場所に開設された。動物園の中に見えるのは藤堂高虎と藤堂家累代のお墓です。東西約26m、南北約38.5m石塀に囲まれた敷地に、大小17基の墓が並んでいるそうです。墓地西側、東に向かって累代当主の墓9基が並んでおり、藤堂高虎はその中央に眠っているそうです。

上野東照宮
 上野動物園の隣に上野東照宮がある。東照宮は、藤堂高虎創建。寛永寺ができる前に、上野には、藤堂高虎下屋敷がありました。藤堂高虎寛永4年(1627)その屋敷跡に、徳川家康を祭神とする上野東照社を創建した。社伝では、家康がなくなる時に、藤堂高虎天海僧正が、危篤の家康の病床に招かれ、三人一つ所に末永く魂鎮まるところを作ってほしいという遺言されたので、藤堂高虎の屋敷がった場所に創建されたとされています。
 東照宮は、創建当時は東照社と呼ばれていましたが、正保3年(1646)、朝廷は家康に「東照宮」の宮号を贈り、それ以後、家康を祭る御宮を東照宮と呼ぶようになりました。現在の社殿は、慶安4年(1651)、3代将軍家光が大規模に造り替えたものです。
・大石鳥居    
 東照宮の入口に、大きな石鳥居がある。この鳥居は、寛永10年(1633年)上州厩橋(現在の前橋)藩主で老中を勤めた酒井忠世が奉納したものです。
 石鳥居のの左の柱に寛永10年 酉四月十七日 厩橋侍従酒井雅楽頭源朝臣忠世」と刻まれている。この鳥居の様式を明神型鳥居といいます。酒井忠世は、秀忠付の年寄でしたが、家光が世継となると家光付の年寄となります。家光は、平素口数少なく厳正な忠世を最も畏れたといわれている。この鳥居を奉納された翌年の寛永11年家光が30万の大軍を率いて上洛した際に、7月に西の丸が火災で焼失する事態が起こり、忠世は責任をとって寛永寺に退去したが、これがかえって家光の怒りをかい失脚することとなった。子は忠行、孫は下馬将軍とよばれた酒井忠清です。この石材には備前御影石が使用されています。鳥居の右の柱には、「得鉅石於備前迎 南海運干当山」と刻まれていて、備前で巨石を取り出し、船で運んできた旨が書かれている。この石鳥居は基礎工事が万全だったため、安政の大地震関東大震災の折にも少しも傾かなかったことで有名であり、国の重要文化財に指定されている。

●大仏とパゴダ
 上野精養軒の手前に少し高くなった丘がある。この丘は、江戸時代は「大仏山」と呼ばれ、大きな釈迦如来坐像が安置されていた。現在は、大仏様はお顔だけがレリーフ状に安置されていて、隣にはパゴタがある。大仏様は、京都方広寺の大仏を模したもの。最初の大仏は、越後村上藩主堀直寄が、寛永8年(1631)に建立した。しかし、明治初年に、大仏殿が取り壊されてしまい、露座となってしまいました。現在では、合格祈願の仏さまとして受験生などに大変人気があるそうです。

彰義隊上野戦争 彰義隊の墓
 紱川慶喜は慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いに敗れ 江戸城に戻っていたが、新政府に対する恭順の姿勢を表し、上野寛永寺に蟄居した。 これに不満を持った幕臣らが、将軍紱川慶喜の警護を目的として渋沢成一郎天野八郎らによって彰義隊が結成された。 幕府により江戸市中取締の任を受けて治安維持をおこなったが、新政府軍のいざこいが絶えず、慶喜が上野から水戸に移った後も 彰義隊は江戸に残った。ついに慶応4年5月15日大村益次郎が指揮する新政府軍が上野の山に立てこもる彰義隊に総攻撃を開始し、わずか1日で彰義隊は壊滅した。
彰義隊戦死者の遺体は、新政府軍を憚り放置されたままであったものを、三ノ輪円通寺の仏磨和尚と寛永寺の御用商人の三河屋幸三郎が戦死者供養の官許を受けて上野山で荼毘にふし、一部を円通寺に埋葬した。

●東京・上野の西郷銅像・・・高村光雲作(犬は後藤貞行作)西郷隆盛
 東京都台東区上野の上野公園に建っている西郷像は高村光雲の作(傍らの犬は後藤貞行作)、鋳造は岡崎雪聲。1889年(明治22年大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の「逆徒」の汚名が解かれたのをきっかけに、吉井友実ら薩摩出身者が中心となって建設計画が始まった。宮内省より500円を下賜され、さらに全国2万5千人余の有志の寄付金で建立された。除幕式は西郷の死後21年を経た1898年(明治31年)12月18日に行われた。身長:370.1cm、胸囲:256.7cm、足:55.1cm。正面から写した写真では頭部が大きく見えるが、これは像の足元から見上げた場合の遠近感で適正に見えるよう計算されているためで、実際の西郷の体つきがこうであった訳ではない。以後「上野の西郷さん」と呼ばれて100年以上も国民に親しまれ、像の意味を少しずつかえつつも現在でも東京タワーや新宿の高層ビル街とならぶ東京の象徴的光景となっている。
 銅像には西郷の真実の姿が望まれたが、西郷には信頼性のある写真が一枚も残っていなかった。岡崎によると、キヨッソーネのコンテ画を元に西郷の知己・親戚に一々聞き、石膏像や木彫も幾度も修正して制作を進めたという。銅像の建設委員長をしていた樺山資紀を助けて奔走していた子息の樺山愛輔は、銅像の顔は極めてよくできているが、光雲は西郷の特徴ある唇(何とも言えない魅力と情愛に弱いところが同居している唇)を最後まで表現しきれないことに苦しんだと書いている。公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉(薩摩弁)を漏らし周囲の人に窘められたという。この糸子の言をも樺山愛輔は「大体の風貌はあの通りとしても、個性的な魅力のある唇のもつニュアンスとでもいうか、そうした二つとない魅力的なものを現はすことは不可能であったわけだ、眼とか顔とか肩のもつ線とかは何とか表現することは出来たらうが、…」と解釈している。
 そこには、西郷の高い人気故に反政府的機運を醸成しかねない動向を逸らし、西郷から武人としての牙を抜き、犬を連れて歩く人畜無害な人物というイメージを民衆に定着させようとする政治的意図が働いていたと見られる。造像後、西郷隆盛像を目がけて紙玉を投げつけるという奇妙な風習がはやり、昭和に入っても鼻に当たると出世すると言われた。