寛永寺から上野公園を歩く①

○上野について
上野(うえの)は、東京都台東区の地名で、旧下谷区にあたる下谷地域内である。地形は、上野恩賜公園のある上野山が北区の方面から伸びる上野台地(武蔵野台地の分脈)の先端部分にあたる。下谷地域に属する。正確には台地である上野山は標高20mほどの高さをもち、上野の街は上野山の東と南に開けている。上野台地の西には東京大学の位置する文京区の本郷台地があり、上野公園西南部にある不忍池はもともと両台地の間の谷(谷中・根津)を流れてきた谷田川(藍染川)が流れ込む場所に自然に形成された池である。現在では谷田川は地表から消滅し、不忍池も面積を縮小させている。下谷地域の南部に位置し、千代田区(外神田)・文京区(湯島)との区境にあたる。
 戦国時代には、『小田原衆所領役帳』に江戸上野という記述が見られ、北条領であった。江戸時代、上野山は、戦国時代には忍岡(しのぶのおか)と呼ばれており、元々江戸においては人口の少ない地域であった。1603年に江戸幕府が開かれた頃、忍岡には、伊賀国上野を本拠地とする外様大名藤堂高虎の屋敷が置かれた。後に徳川将軍家菩提寺である寛永寺が建立され、門前町が開けた。この頃から、寛永寺付近の一帯を「上野」と呼ぶようになる。これは、藤堂家の所領である上野に地形が似ていたためと言われている。寛永寺には歴代将軍の墓も建てられ、江戸幕府から保護されたので繁栄し、それに伴って門前町の上野も発展した。上野寛永寺は、江戸城から見て陰陽道上の鬼門に当たり、京都の延暦寺(京都から見た場合は北東)に擬えた江戸鎮護の寺でもあった。
 明暦の大火後には上野に広小路が設置された。ただし、当時の上野広小路は現在の上野駅付近にあり、現在の広小路は江戸時代には「下谷広小路」と呼ばれていた。明治時代以後、1868年に新政府軍と彰義隊による上野戦争寛永寺が焼失し、その跡地が上野公園となった。その後、東京市15区6郡制の下で、上野公園とかつての門前町下谷区編入される。1883年の上野駅開業後には、上野駅東北本線の始発駅となったことから、東京の北の玄関口の役割を担うようになり、街も発展した。1947年に東京都の区が23区に再編されると、下谷区浅草区が合併し、台東区となるとその一部となり、現在に至っている。
○公園概略
上野恩賜公園(うえのおんしこうえん)は、東京都台東区にある公園。通称上野公園。「上野の森」とも呼ばれ、武蔵野台地末端の舌状台地「上野台」に公園が位置することから、「上野の山」とも呼ばれる。総面積約53万m²。東京都建設局の管轄。公園内には博物館、動物園等、多くの文化施設が存在する。「上野公園」は台東区の町名でもある。
東京国立博物館国立西洋美術館国立科学博物館恩賜上野動物園などの文化施設が集中して立地している。また彫刻家高村光雲作の西郷隆盛像があることでも知られる。高台となっている忍ヶ岡は、近世からソメイヨシノの名所としても有名であり、日本さくら名所100選に選定されている。桜の開花時期になると、大勢の花見客が押し寄せることで有名である。また、忍ヶ岡の南に位置する不忍池(しのばずのいけ)は、夏には池の一部を覆い尽くすほどの蓮に覆われ、一面の緑の葉と桃色の蓮の花が美しい。冬には鴨をはじめとした数多くの種類の水鳥が飛来し、とても賑やかになる。
江戸時代、三代将軍・徳川家光江戸城丑寅(北東)の方角、すなわち鬼門を封じるためにこの地に東叡山寛永寺を建てた。以来、寛永寺は芝の増上寺と並ぶ将軍家の墓所として権勢を誇ったが、戊辰戦争では寛永寺に立て篭った旧幕府軍彰義隊を新政府軍が包囲殲滅したため(上野戦争)、伽藍は焼失し、一帯は焼け野原と化した。1870年、医学校と病院予定地として上野の山を視察した蘭医ボードウィンが、公園として残すよう日本政府に働きかけ、その結果1873年に日本初の公園に指定された。このことをもってボードウィンは、上野公園生みの親と称されている。2012年時点で、世界に文化と芸術を発信する「文化の森」を創出することを目的として、2010年度から2015年度までの計画で「上野恩賜公園再生整備事業」が行われている。
<沿革>
・1868年7月4日 上野戦争により寛永寺伽藍の大部分を焼失
1873年5月 太政官達により東京府公園に指定[3]
・1876年5月 公園建設完成、開園
・1876年 園内に新聞縦覧所、自働体重計(自動販売機の日本最古の記録)が設置される
・1877年 寛永寺本坊跡地にて第1回内国勧業博覧会を開催
・1879年8月 島津忠義公が、訪日中のグラント将軍と明治天皇のため、天覧犬追物を開催
1881年 第2回内国勧業博覧会を開催、閉会後に博物館が使用する前提で煉瓦造の建物を建設。島津忠義公、2度目の天覧犬追物を開催
・1882年3月20日 国立博物館および付属動物園が開館
・1890年 帝室御料地となり宮内省の管轄に置かれる
1924年 宮内省から東京市に払い下げられ、この経緯から「上野恩賜公園」という名称となった
・1933年 京成本線日暮里駅 - 京成上野駅間に博物館動物園駅が開業
・1973年 公園指定100周年を記念して、ボードウィン博士の銅像を建立。ただし、顔がボードウィン博士の弟のものに取り違えられていた
・1997年 博物館動物園駅営業休止
・2004年 博物館動物園駅廃止
・2006年 ボードウィン博士の銅像の(正しい顔への)建て替えが行われる
・2012年 「上野恩賜公園再生整備事業」における「竹の台・文化施設エリア」の再整備工事(噴水・オープンカフェ・園路の再整備と樹木伐採)が完了
日本国内でも有数の都市公園で、公園の内外に歴史建築物や文教施設が多数存在しており、一帯が文化・芸術の集合地域を形成している。東京都立恩賜上野動物園をはじめ、動物園の付近に世界的な日本人芸術家を輩出した旧東京音楽学校奏楽堂などの芸術博物館、東京芸術大学東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校、東京都立上野高等学校などの教育施設が広がっている。
 鶯谷駅方面には徳川家霊廟の歴史的建築などが存在する寛永寺や明治政府が国威発揚のために力を入れた東京国立博物館国際子ども図書館があり、噴水池周辺には東京都美術館国立科学博物館があり、上野駅公園口近くには国立西洋美術館東京文化会館がある。
 さらに、京成上野駅そばには上野の森美術館西郷隆盛像がありその西側に桜並木が続く。桜並木沿いに徳川家の遺構を残す清水観音堂(寛永寺)、五条天神社・花園稲荷神社がある。脇道に逸れると上野東照宮寛永寺五重塔(東京都所有)があり、伊豆栄梅川亭、上野精養軒など老舗料理屋がある。西側に坂を降りると不忍池が広がり、橋を渡ったところに不忍池弁才天寛永寺:谷中七福神)がある。池の周りには下町風俗資料館や水上音楽堂が点在している。

天海大僧正
 慶長4年(1599)無量寿寺北院の豪海の後を受けて、天海が北院の第27世の住職となった。右の写真は喜多院の山門前にある天海大僧正銅像です。
 慶長12年(1607)には比叡山南光坊への在住を命ぜられました。慶長14年(1609)、朝廷より権僧正の僧位を受けました。また慶長17年(1612)に家康により無量寿寺北院の再建が着手され、院号喜多院と改め関東天台の本山とされ、天海が院主として招請されました。
 慶長18年(1613)には家康より日光山貫主を拝命し、本坊の光明院を再興した。
元和2年(1616)4月危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を天海らに託した。その内容は、「死後、遺体は駿河国久能山に葬り1周忌が過ぎてから、下野国日光山に勧請すること」というものでした。
 家康死後には神号を巡り金地院崇伝、本多正純らと争いがありましたが、家康の神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山から日光山に改葬しました。天海が生前、家康に仕えたのは7年間だったと言われています。
 元和2年(1616)7月に大僧正となった天海は、日光東照社の造営にあたり、元和3年(1617)に久能山から日光への遷座が完了しました。
 その後徳川秀忠徳川家光に仕え、寛永2年(1625)には上野に寛永寺を創建した。
 また、東照宮の七回忌、十三回忌、十七回忌、二十一回忌、二十五回忌法要すべてを日光東照宮において天海が導師を勤め執り行ったそうである。天海大僧正は、寛永20年(1643)に没しました。年齢は108歳であったといいます。現在でも108歳というと大変長命です。それが江戸時代に108歳まで生きられていたか疑問に思われると思いますが、天海存命中から高齢であるということは有名だったそうです。現在では108歳でなくなったというのが定説だそうです。
 死後、寛永寺で葬儀が営まれた後、東照権現久能山から日光山への遷座の例に倣って千人余の供奉により、日光山内大黒山に葬られました。そして、死後5年後の慶安元年(1648)に、朝廷より慈眼大師号を追贈されました。

寛永寺
 現在の上野公園一体は、江戸時代は、寛永寺の境内でした。寛永寺の境内は30万5千坪もあったそうですので、寛永寺の境内だった場所の一部が現在の上野公園であると言えます。現在の寛永寺の本堂ですが、寛永寺は、寛永2年(1625)天海大僧正によって創建された。天海大僧正は、徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍の帰依を受けた大僧正です。天海は、江戸に天台宗の拠点となる大寺院を造営したいと考えていました。そのことを知った秀忠は、元和8年(1622年)、現在の上野公園の地を天海に与えました。
 当時この地には伊勢津藩主藤堂高虎弘前藩津軽信牧、越後村上藩主堀直寄の3大名の下敷がありましたが、それらを収公してお寺の敷地とした。
・本坊建立
秀忠が隠居した後、寛永2年(1625年)、3代将軍徳川家光の時に寛永寺の本坊(住職が住む建物)が建立された。寛永寺の建立時期については諸説があるそうですが、この本坊ができた年が寛永寺の創立年とされることが多いのです。寛永寺の本坊は、現在の東京国立博物館(上の写真)が建っている場所にありました。
比叡山延暦寺が手本 
  天海大僧正は、比叡山延暦寺を手本に寛永寺を建立した。寛永寺江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に建立された。これは比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、鬼門守護の役割を果たしていたことにならったものです。 そこで山号は東の比叡山という意味で東叡山とされました。
 寛永寺の正式な名前は、東叡山寛永寺円頓院といいます。
 そして、寺号も延暦寺が建立当時の年号を使用して命名されたとの同じように、創建時の年号を使用することを勅許され、寛永寺命名された。
 年号が、お寺の名前に使用されているのは、ほかに仁和寺建長寺があるくらいであり、非常に稀な例です。また、院号として円頓院という院号が使われていますが、これも「円頓止観」という言葉があり、延暦寺が止観院と称していたことによるものだそうです。さらに、つぎつぎと建立した建物も、比叡山とその近くの京都・近江の建物・風景を模したものとなっています。
 代表的なものは、琵琶湖に模した不忍池であり、不忍池の弁天堂は琵琶湖の竹生島を模したものです。清水観音堂は、京都の清水寺を模したものです。その後、寛永4年(1627年)には東照宮などが、寛永8年(1631年)には清水観音堂、五重塔などが建立されました。そして、寺の中心になる根本中堂が落慶したのは開創から70年以上経った元禄11年(1698年)、5代将軍綱吉の時代です。根本中堂が建っていたい場所は、現在、噴水広場(上の写真)になっている。
 寛永寺の境内は、最盛期には現在の上野公園を中心に約30万5千坪もあり、寺領は大名並みの約1万2千石ありました。寛永寺の堂塔は、現在の上野公園の中央部分の噴水広場に あたる 竹の台には、 間口45m、 奥行42m、高さ32mという壮大な根本中堂がありました。
 現在の東京国立博物館の敷地には寛永寺本坊がありました。
 さらに清水観音堂、不忍池弁天堂、 五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍が立ち並んでいました。そして、子院も36坊をありました。まさに壮大な堂塔伽藍であったわけです。
・家綱公霊廟
 国立博物館の裏手は、 現在、寛永寺の霊園となっている。寛永寺霊園は、第一霊園から第三霊園まである。この寛永寺第一霊園の場所に、江戸時代には、3代将軍家光の霊廟と4代将軍家綱の霊廟がありました。将軍家の菩提寺増上寺でしたが、3代将軍家光が寛永寺天海大僧正に深く帰依し、家光の葬儀を寛永寺で行い、日光に埋葬するよう遺言したことから、寛永寺も将軍家の菩提寺の役割を果たすようになりました。家光の霊廟は慶安5年(1652)4月2日に完成しました。しかし、享保5年(1720)に焼失してしまいました。以前は、「大猷院霊廟跡」の碑が、寛永寺第一霊園内にあったようですが、不明です。なお、「大猷院」とは、家光の法号です。4代将軍家綱は、3代将軍家光の長男です。慶安4年(1651)4月20日に、家光が死んだため、わずか10才で将軍の座につきました。江戸幕府も、開かれてから、約50年たっていますので、体制がしっかりし、補佐役もいたため、10歳の将軍でも磐石でした。しかし、家綱は、病弱であったこともあり、延宝8年(1680)5月8日に 39才の若さでなくなりましした。そして、家綱も寛永寺に埋葬されました。家綱の法号を厳有院といいます。そのため、家綱の霊廟は「厳有院霊廟」とも言います。家綱の霊廟の一部は維新後に解体され、大部分が大第二次世界大戦で焼失した。 その中で、勅額門と水盤舎だけが、これらの災を免れた。勅額門の形式は四脚門、切妻造で、前後軒唐破風付、銅瓦葺で重要文化財に指定されている。この勅額門は昭和32年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられています。
・勅額門です。龍の彫刻がされていました。一方、水盤舎は、将軍家墓所の入口にありますが、中に入ることができません。一般の方の墓地の中から、遠く眺めるだけです。遠くから眺めるににしても、銅葺き屋根で、風格のある建物であることがわかる。水盤舎は延宝8年に家綱のために造立されたものです。水盤舎の奥の石垣の中に、家綱公の宝塔があるそうです。
・綱吉霊廟
 綱吉の法号は常憲院といいますので、綱吉の霊廟は常憲院霊廟とも言います。常憲院霊廟は、家綱の霊廟の近くにある寛永寺第3霊園の中にあります。綱吉は、延宝8年(1680)5月に兄である4代将軍家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永6年(1709)1月10日に63才で没しました。
 綱吉は、「生類憐みの令」を施行して「犬公方」として有名ですが、将軍就任早々は、「天和の治」と言われる善政を行なったことはあまり知られていません。また、綱吉は、元禄11年(1698)9月、寛永寺の根本中堂が建立しました。造営の奉行は柳沢吉保が行い、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門が担当し、二人が大尽になるきっかけとなった。綱吉の霊廟は、歴代将軍の仲でもっとも整ったものの一つであったと言われている。もとは本殿・拝殿・中門などの建物がならぶ豪華なものだったそうです。しかし、霊廟の一部が維新後に解体され、さらに大部分が第二次世界大戦で焼失してしまい、現在残っているのは、勅額門と水盤舎だけとなった。勅額門と水盤舎は重要文化財に指定されている。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺です。水盤舎は、勅額門のすぐ後ろにありますが、木の陰に隠れていて屋根しか見えません。勅額門の奥の石垣の中に、5代将軍綱吉の墓所がありますが、一般公開されていませんので、拝観はできない。墓所には青銅製の唐門があり、その奥に綱吉の宝塔があり、宝塔は台座までいれて約3メートルある青銅製の立派な宝塔だそうです。さらに、常憲院霊廟には、8代将軍吉宗、13代将軍家定の宝塔があります。そして、家定と並んで天璋院篤姫の宝塔もあります。勅額門の脇には、天璋院篤姫についての説明板がありました。天璋院の宝塔の脇には、天璋院の好物出会った枇杷の木が植えてあるそうです。
寛永寺根本中堂
 寛永寺の本堂(根本中堂)は、現在は、常憲院霊廟の近くにあります。元々、寛永寺の旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水のところにありましたが、慶応4年(1868)彰義隊の兵火で焼失しました。そのため明治12年に、寛永寺の子院であった大慈院に、埼玉県川越市喜多院の本地堂を移築し、寛永寺の本堂としたものです。この建物は寛永15年(1638)の建造と言われています。喜多院でも、薬師様がお祀りされていたそうです。寛永寺の説明書によると、 根本中堂の開口・奥行ともに17.4メートル)あります。そして、前面に三間の向拝と五段の木階、背面には一間の向拝があります。周囲には勾欄付廻縁をめぐらしています。また、桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままで、屋根は入母屋造、本瓦葺、二重垂木となっています。
・勅額「瑠璃殿」
 本堂正面に掲げられている額は、東山天皇が自ら書いた「瑠璃殿(るりでん)」の勅額です。 薬師如来は、正式には薬師瑠璃光如来と呼ばれます。瑠璃というの、この薬師瑠璃光如来からとられた言葉です。この勅額は、元禄11年(1689)に建立された元の根本中堂に掲げられていたものですが、上野戦争の際に、奇跡的に事前に持ち出されていたものです。江戸では大火がしばしばおき、十大大火と呼ばれる大火がありました。その中に「勅額大火」と言う大火があります。「勅額大火」は、寛永寺の根本中堂に掲げられる勅額が江戸に到着した日におきたため、そう名付けられました。
 この勅額は「勅額大火」の由来となった勅額でもあります。
・ご本尊薬師三尊は秘仏
 根本中堂の内部は、もともとは、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられていて、須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置されているそうです。内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものですが、現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて畳敷となっているそうです。そして、内陣の厨子内には秘仏の本尊薬師三尊像が安置されています。御本尊は、伝教大師最澄上人が自ら刻んだとされていて、国の重要文化財に指定されています。本堂は、法要のない日曜日・祝日には公開されているので、中をみることができます。
慶喜謹慎の「葵の間」
 現在の寛永寺の根本中堂がある場所は、江戸時代には、大慈院という寛永寺の子院がありました。この大慈院は、鳥羽伏見の戦いで敗北した徳川慶喜が、新政府に対して恭順の意を表すために、謹慎していた場所です。本堂裏手にある書院には、水戸退去の前に2か月ほど蟄居(ちっきょ)していた部屋(葵の間)が保存されています。しかし、残念ながら非公開です。
・・寛永寺の銅鐘
 寛永寺の山門の脇に鐘楼がある。もとは厳有院殿霊廟の鐘である。この鐘は、4代将軍家綱の一周忌の延宝9年(1681)58日に 厳有院殿霊廟前の鐘楼に奉納された。鐘の大きさは、総高177.2センチ、口径91.8センチあり、台東区有形文化財に指定されている。明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、ここに移されたそうです。現在も、除夜の鐘などに使用されているそうです。作者は、椎名伊予守吉寛です。椎名伊予守は、江戸時代前期に活躍した江戸の鋳物師で、現在の平川橋にある儀宝珠増上寺の大鐘を造った人です。
 この鐘は、4代家綱の霊廟つまり厳有院殿霊廟の鐘楼の鐘であったということ。
・将軍家霊廟の構成
 将軍家霊廟は、大きく分けて二つの区画に分かれます。 本殿すなわち霊殿(位牌所)を中心とした区画と宝塔すなわち廟(墓所)を中心として区画です。霊は、ニ天門、勅額門、鐘楼、水盤舎、井戸と井戸屋形、中門回廊、供所〔装束所〕、拝殿、相之間、本殿(仏殿)、仕切門などの建物があります。廟は、唐門、拝殿、中門(鋳抜門)、宝塔から成っています。厳有院殿霊廟の大きさは厳有院殿霊廟は、延宝9年(1681)上棟した建物が元禄11年に焼失してしいました。そして、翌元禄12年に再建された。焼失前の厳有院殿霊廟の主な建物の大きさは、仏殿が京間3間2尺9寸、相之間 桁行 京間4間4尺7寸、拝殿 桁行 京間 7間5尺9寸 だったそうです。元禄12年に再建された厳有院殿霊廟も大部分が戦災で焼失した。現在残っているのは、勅額門と水盤舎だけです。

<参考 上野散策 http://d.hatena.ne.jp/whitewitch/20161120/1479650250