寛永寺から上野公園⑤

◆もともと上野公園は,江戸の三代将軍・徳川家光が鬼門を封じるために東叡山寛永寺の敷地であったが,戊辰戦争において寛永寺に立てこもった旧幕府軍を新政府軍が攻めたことにより,焼け野原となっていた。その場所に医学校と病院を建設する予定であったが,上野の山を視察したオランダ医者のボードワン博士が、公園として残すよう日本政府に働きかけて、1873年に日本初の公園に指定されたものである。そこには、春になると桜の名所となり、様々な博物館が建ち並び、上野動物園もあって,文化芸術の森となっているが、じっくり公園を歩いてみると様々な銅像があることに気づく。普段は見逃してしまいそうな、そんな上野公園の銅像を改めて散策した。

●安井誠一郎像
 JR上野駅の公園口を降りて横断歩道を渡り、東京文化会館の脇に設置してある銅像は、戦後初代の東京都知事となった安井誠一郎像である。戦後の東京復興、東京オリンピックの招致など、12年間にわたって知事を努め、この偉業を偲んで1966(昭和41)年に当時の東龍太郎知事が設置したものである。

●試験管を振る野口英世
 噴水広場の奥、国立科学博物館脇の散策路に立つのが世界的に有名な細菌学者・野口英世像である。1876(明治9)年に福島県猪苗代町で生まれ、その後中南米やアフリカに赴いて黄熱病の研究に努めたが、自ら黄熱病にかかってしまい1928(昭和3)年に53才で没した研究者である。銅像建立の活動は、当初、福島県三春町出身の玉応不三雄という人物が行っていたが、その後、日本医師会北里研究所野口英世記念会などの活動により1951(昭和26)年に現在の場所(竹の台噴水の東側)に建立されている。珍しい全身立像である。

●上野公園を提唱した生みの親「ボードワン博士」
 ボードワン博士はオランダ軍医の講師として、1862〜1871(明治4)年まで滞在していた。ここは東叡山寛永寺の境内であり、幕末の上野戦争で荒廃したため、病院の建設計画があがっていたが、すぐれた自然が失われるのを惜しんで政府に公園造りを提言したのがボードワン博士である。そして,1873(明治6)年に日本で初めての公園が誕生することになり、いわはボードワン博士は,上野公園の生みの親と言われている。この像は上野恩賜公園開園百年を記念して1973(昭和48)年に建てられたが、製作の手違いにより弟の写真を基にした像が置かれていて、2006(平成18)年に本人の像に置き換えられた経緯がある。

小松宮彰仁親王銅像
 彰仁親王は,伏見宮邦家親王の第八皇子である.1868(慶応4)年の鳥羽・伏見の戦い征東大将軍として参戦し,会津征伐後、総督となって戊辰戦争に従軍している。1877(明治10)年の西南戦争の負傷者救護団体として創立された博愛社(のちの日本赤十字社)の総長に就任し、以後赤十字活動の発展に貢献していった。銅像は1912(明治45)年に建てられたものである。
 輪王寺第13世門跡で寛永寺第15代山主の公現法親王(還俗後、北白川宮能久親王)は、小松宮様の弟宮にあたられる。

●時忘れじの搭
 落語家の故・林家三平師匠未亡人、海老名香葉子さんが建立した東京大空襲を忘れないための平和の母子像の記念碑。平成16年に建立され、林家ご一門により慰霊の会が催されている。

●グラント将軍植樹碑
 明治12年(1879)、アメリカ合衆国第18・19代の大統領グラント将軍が、任期終了後に、夫妻で世界一周の途上、来日をされた。上野公園で明治天皇行幸のもとに開催の歓迎会にて植樹をされた記念碑で、毎年、献花が行なわれている。グラント将軍はローソン・ヒノキを、夫人はタイサンボク(マグノリア)を植樹された。