怒る富士、神様になった関東郡代伊奈忠順。そしてほおずき市。

<江戸学>
◆宝永4年(1707)の富士大噴火で、復旧工事に尽力した関東郡代伊奈忠順。遺徳を偲び静岡県須走に祀られた伊奈神社の境内には、その銅像も。駿府の幕府御蔵米を亡所(棄民)となった被災民に独断で供した忠順は、責を問われ切腹したという説も。
 須走の中心街の北側の裏通り、徳川家康江戸入府以来の関東郡代7代目伊奈忠順(ただのぶ)を祀った伊奈神社。いまから400年くらい前の生身の人間、しかも体制側の人を神に祀り上げて民衆側の人々が作った神社である。「宝永の大噴火」からはじまる。1707年12月16日、富士山の東南斜面で大噴火が起り終焉したのは12月31日、降砂は須走あたりで3m50cmを越え、駿河国の小山、御殿場、相模国の山北地区で1〜2m、江戸市中で5〜10cmを記録したといわれている。このときの幕府側の災害対策総責任者が関東郡代伊奈忠順、農民のために救済、復旧に全力をつくし体制側と農民側の板ばさみになり割腹。農民たちは体制側を慮り目だたぬように村々に小祠をたて暗夜ひそかにお参りした。幕末になり小祠がまとめられ、ようやく明治の1907年に須走に伊奈神社を建立、1979年現在の地に再建。非体制側の人々が体制側の人を神様にしたのは熊本県天草にある天草代官鈴木重成鈴木神社、薩摩家老平田靫負と薩摩藩士84名を祭神とする岐阜県海津市にある治水神社とここ。いずれの祭神も割腹という最後を遂げている。伊奈神社の一隅に立つ伊奈忠順の彫像であり、「御厨の父 伊奈半左衛門忠順公之像」と書いてある。
※御厨とは・・・中世平安時代における皇室、有力神社の荘園(神領)、いまも地名で残る地区もある。御殿場、小山地区は中世は御厨荘園だったのか?
<参考>新田次郎著「怒る富士」(文春文庫1980年刊)
 1972年静岡新聞に連載。1974年文芸春秋社で単行本。1980年文春文庫で文庫化。2007年新装版発刊。新田次郎(19012〜1980年)・・・気象庁職員から作家に。「怒る富士」は中央気象台富士測光所に勤務した青年期、地元の職員に聞かされた話を暖めて60歳にとき発表したもの。資料倒れするほどの資料を集め検証し現場取材を重ね疲労を覚えたという。
 小説は「宝永の大噴火」から始まる。噴火は小田原藩大久保家の領地の御殿場、須走、小山などの駿東59ヶ村から相模の足柄下郡、上郡に甚大な被害を及ぼします。幕府は大久保家の被災所領地を直轄領に変更(大久保家には幕府の他の直轄領を代替地に与えます)。被災地の復興に向けて関東郡代伊奈忠順を任命。復興資金として全国の士分に対して禄高100石につき2両の義捐金(強制的)を上納させます。全国の士分から集めた義捐金は40万両、そのうち16万両を復興資金に回し、残りは使途不明金に。大奥の運営資金、朝鮮通信使接待費用、皇室勅使の接待費用に流用されたといいますが定かではありません。駿東地区で除去した降砂は雨が降れば鮎沢川から酒匂川に流れ出し河床を上げ、大雨が降れば川が氾濫、二次被害を起こします。大規模な川攫い工事も復興のための公共事業になります。この公共事業の請負は伊奈忠順の手の及ばないところで江戸の商人が入札していく。さらに幕府の直轄領とした被災地を亡所宣言します。亡所とは領民に税金は取らないから好きなようにせいということ。行政放棄され飢えに苦しむ百姓の悲惨な状況を見て忠順は駿河の幕府米倉から米を持ち出し被災農民に与えた。これが原因で忠順は切腹するが、幕府から切腹を命じられたか自ら死を選んだかは不明。小説では自ら死を選び、幕府は病死として伊奈家は跡目を認められた。
 忠順がお倉米を持ち出し領民を救ったということも切腹したことも記録には残っていない。「徳川実記」には「忠順死ければ養子十蔵に家を継がしめ父の原職を命ぜられる」と書いてあるだけ。忠順が死したのは1712年、それから江戸中期、後期、駿東の民百姓は忠順を神と崇め祠をつくりひそかに詣でてきた。忠順公は記録にはなくても記憶に残り農民の口から口への伝説となりやがて伊奈神社の祭神になる。 忠順の自死が犬死であったか。その後、駿東地区は年に数町歩の田畑が復帰されていった。元に復帰するまで数十年の年月がかかったそうですが百姓は強かに生き延び亡所にはなりませんでした。義捐金の流用、復興公共事業の指名入札、被災で飢えに苦しむ農村を亡所にして政争、派閥争いに明け暮れる幕府閣僚、政治家。もう30年も前に書かれた小説ですがいまの社会に問題提起しています。(亡所・・・ふるさとを離れるしかない状況の場所)

ほおずき市
 創建は628年、都内最古といわれる浅草寺。地元の人々から愛されているだけでなく、全国から多数の観光客が訪れる人気スポット。7月9日、10日に浅草観音に参拝すれば、一日だけで四万六千日参拝したのと同じご利益があるといわれている。古くからこの日の参拝も盛んでした。現在は境内にほおずきを売る店が約100も並び、風鈴の涼しげな音色、ほおずきの鮮やかな朱色、そして色とりどりの浴衣姿でそぞろ歩きを楽しむ人々で、浅草寺は下町の市らしい華やぎを見せる夏の風物詩である。