春慶寺。

<江戸学>
◆『鬼平犯科帳』にもしばしば登場するスカイツリー直近の春慶寺は、元和元年(1615年)浅草森田町の地に、真如院日理上人によって創建された。その後、寛文7年(1667年)に浅草から押上に移転、現在まで約四百年の歴史を持つ由緒あるお寺である。江戸時代から「押上の普賢さま」と称され、特に辰年、巳年守り本尊として多くの参詣人で賑わっている。当時の隆盛ぶりは、「東都歳時記」や「武江年表」等で再三紹介されている。また、天明(1781〜89年)の頃に活躍した浮世絵師勝川春潮の「押上村行楽」という浮世絵には、石の道標に「押上村」「普賢菩薩」という文字が見られ、押上村の春慶寺に“お参りに行く”ことが人々の大きな楽しみであった。現在、境内には「鶴屋南北の墓」や「関東俳優之碑」が残っている。震災や大戦による災禍もあって一時、寺運が衰えたこともあった。昭和58年、奇特な信者の寄進と役員の努力により再興された。
鶴屋南北の墓
 春慶寺は「東海道四谷怪談」の作者として有名な戯作者「大南北」こと四世鶴屋南北菩提寺である。南北は江戸乗物町(中央区本町4丁目)の紺屋伊三郎の子として生まれ、安永5年(1776年)初代桜田治助に入門し、文化元年(1804年)の「天竺徳兵衛韓噺」で当てたと言われます。同8年(1811年)四世鶴屋南北を襲名し、永く名声をほしいままにしました。文政12年(1829年)11月27日に亡くなった南北の葬儀は翌年1月13日この春慶寺で盛大にいとなまれました。深川の黒船稲荷の自宅からこの寺まで、裃をつけた役者衆の長い葬列が続き、参列した大勢の人々には、竹皮に包まれた団子がふるまわれ、生前あらかじめ書き上げた自らの葬いをめでたい萬歳に仕立てた「寂光門松後萬歳」(しでのかどまつごまんざい)の台本が配られました。
鬼平犯科帳・切り絵
 池波正太郎氏が作り上げた傑作『鬼平犯科帳』。この小説は江戸期に実在した幕臣長谷川平蔵宣以(1745〜1795)が、火付盗賊改方として活躍するさまを描いたものですが、春慶寺はこの中で、鬼平の親友 岸井左馬之助の寄宿先として、たびたび登場している。とくに、「明神の次郎吉」(文春文庫第八巻所収)という作は春慶寺を舞台とした筋立てとなっており、当時の押上近辺の様子が生き生きと描かれている。