ちょうど20日前

◆いよいよ三週間を切りました。

◆幕末の歴史
・1842年 異国船打払令が撤廃される
1850年 佐賀藩で日本初の反射炉が建設される
・1851年 アメリカ船が中浜(ジョン)万治郎らを連れて琉球に来航。 薩摩藩藩主・島津斉彬が藩政改革に着手
・1853年 アメリカのペリーが浦賀に来航し開国を要求。ロシアのプチャーチンが長崎に来航
1854年 ペリーが再来航し、日米和親条約締結。イギリス、ロシアとも和親条約を締結
・1856年 アメリカ総領事のハリスが下田に着任
・1858年 大老井伊直弼が朝廷の許可なく日米修好通商条約を締結
・1859年 安政の大獄吉田松陰橋本左内ら処刑される)
     神奈川・長崎・箱館が開港。ロシア・フランス・イギリス・オランダ・アメリカの5カ国に貿易許可が出る
1860年 咸臨丸、太平洋を横断。桜田門外の変大老井伊直弼が水戸浪士らにより暗殺される)
1862年 坂下門外の変(老中・安藤信正が襲撃される)
1862年 皇女和宮十四代将軍家茂に降嫁(公武合体
1862年 一橋慶喜将軍後見職に就任。生麦事件起こる
1863年 長州藩、下関で外国船を砲撃。高杉晋作奇兵隊を設立。
     生麦事件の報復として、イギリスが薩摩を砲撃(薩英戦争)
1863年 八月十八日の政変尊攘派の公家が追放される)
1864年 水戸藩天狗党が挙兵。京で新選組尊攘派志士を襲撃( 池田屋事件)。長州藩が京で挙兵(禁門の変
1864年 幕府による第一次長州征伐。英など四国連合艦隊が下関を砲撃 (下関戦争)。
・1865年 第二次長州征伐
・1866年 薩長同盟成立。慶喜が十五代将軍に就任
・1867年 薩長に討幕の密勅下る。徳川慶喜大政奉還を奏上。朝廷が王制復古の大号令。
     新政府発足。慶喜に官位辞退と領地返上が命じられる
・1868年 鳥羽・伏見の戦い戊辰戦争始まる)。江戸は東京に改称
・1869年 東京に遷都。五稜郭の戦い(戊辰戦争終結)。乗合馬車開業
     版籍奉還
1871年 廃藩置県岩倉使節団を欧米に派遣。東京−大阪間・郵便事業開始。
     断髪令・廃刀令公布
・1872年 鉄道開通(新橋−横浜間)。学制公布。官営富岡製糸場開業。
     太陽暦採用。福沢諭吉著『学問のすすめ』発行
1873年 徴兵令公布。地租改正条令公布。明治6年の政変(征韓論争)
     キリスト教解禁
・1874年 佐賀の乱(リストラ武士による内乱、各地で西南戦争まで続く)
・1874年 板垣退助らが民撰議院設立の建白書を太政官に提出
・1876年 秩禄処分敬神党の乱秋月の乱萩の乱
・1877年 西南戦争西郷隆盛が自刃し、乱は鎮圧)

◆歴代天皇(近世の天皇)   
第百八代    後水尾(ごみずのお)天皇
第百九代    明正(めいしょう)天皇
第百十代    後光明(ごこうみょう)天皇
第百十一代   後西(ごさい)天皇
第百十二代   霊元(れいげん)天皇
第百十三代   東山(ひがしやま)天皇
第百十四代   中御門(なかみかど)天皇
第百十五代   桜町(さくらまち)天皇
第百十六代   桃園(ものぞの)天皇
第百十七代   後桜町(ごさくらまち)天皇
第百十八代   後桃園(ごももぞの)天皇
第百十九代   光格(こうかく)天皇
第百二十代   仁孝(にんこう)天皇
第百二十一代  孝明(こうめい)天皇

◆「勅額火事」
・勅額火事は、元禄11年9月6日に起きた火事。勅額とは上野の東叡山寛永寺の根本中堂の正面に掲げられた額をいう。寛永寺全体の本堂にあたる根本中堂は、将軍綱吉が、柳沢吉保を普請の総奉行に命じ、工事御手伝いを島津綱貴に命じて建立させた。高さ30.8メートルの根本中堂は、元禄11年7月に完成し、根本中堂の落成式は9月3日に盛大におこなわれた。なお、根本中堂建設の余った材木で隅田川下流永代橋が架けられた。
 根本中堂は完成したが、東山天皇御宸筆の勅額が間に合わなかった。勅額が江戸に着いたのは9月6日でした。勅額は大きな横額で、黒塗りの上に金で「瑠璃殿」の三文字を草書で入れ、縁は雲の模様でした。その日の午前10時近く、数寄屋橋門外の南鍋町から火が出た火事が千住まで延焼する大火となった。勅額が江戸に到着した日に起きた火事であるため、勅額火事または中堂火事と呼ばれている。
 南鍋町で出火した火事は、激しい南風が吹いていたため、数寄屋橋門内から鍛冶橋門内に広がり、吉良上野介義央の屋敷をはじめ多くの大名屋敷を焼失させた。その中には、呉服橋門内にあった熊本藩細川家の上屋敷も焼失した。この時、熊本藩主細川綱利は神田橋外にあった護持院の防火を命じられて出動した。護持院は無事でしたが、留守中、自分の屋敷は焼失してしてしまった。また、南町奉行所も炎上し、柳沢吉保の常盤橋門内の屋敷も焼失した。柳沢吉保はいったん屋敷にもどったが、夜になって寛永寺にまで火事が延焼したと聞いたので、江戸城に出仕した。上野にあった林羅山以来の林家の別荘や旧孔子廟・墓地なども焼失し、のちに、林家の土地は寛永寺領になり林家には牛込に代地が与えられた。また、湯島天神下の新井白石の屋敷も焼失した。
 寛永寺では、黒門と仁王門が焼け、つぎに本坊が表門と御成門を残してすべて焼け、厳有院(四代将軍家綱)の霊廟も焼けました。当時の寛永寺の防火担当は秋田藩藩主佐竹義処でした。佐竹義処のまさに合戦さながらの活躍で、完成したばかりの根本中堂の焼失は免れました。しかし、佐竹家では、上屋敷はじめ屋敷四か所を焼失してしまったそうです。この時の佐竹義処の活躍ぶりを、寛永寺の防火のため出動していた水戸藩徳川綱条は褒め称えたと記録が残されている。
 この時、焼失を免れた根本中堂は、その後の多くの火災にも焼失することなく幕末まで残された。 しかし、慶応4年の上野戦争で焼失してしまい、現在は、明治12年に川越喜多院の本地堂が移築され再建されている。この火事で、浅草の三十三間堂も焼けてしまいました。この後、三十三間堂は、深川に再建された。火事は、千住の掃部宿まで延焼し、ようやく鎮火した。

◆慶応3年(1867)10月14日、将軍徳川慶喜(31)が大政奉還を決め、朝廷に上奏。これで家康以来15代続いてきた徳川幕府が事実上終焉。また鎌倉幕府以来の武家政治も終わりました。大政奉還そのものは、坂本龍馬の提案で、これを土佐の後藤象二郎が前藩主山内容堂に建白。容堂は薩長両藩主導による新たな政権作りに批判的だったため、慶喜を盟主とする新体制を提案し、この日の上奏となりました。

<今日の小池劇場>
豊洲市場問題 市場長の事実上 更迭 発表 質問状に石原元知事回答。
 豊洲市場の問題で書面で応じたいとしていた石原元知事から、質問上に回答が来たことも明らかにした。小池知事曰く、その内容とは「自分は聞いていない、記憶にない、覚えていない、分からない」といった内容であったという。小池知事は「都合の悪いことを先に伝えないと明確な答えは見つからない。これまでのご功績を無にしないで欲しい。」と話す。更にこの問題を受け人事に関しては、市場長を交代し、技術職を統括する理事ポストを新設すると述べた。岸本市場長を明日付で総務局の理事とする事実上更迭の方針を示した。岸本市場長は、昨日の江東区議会で初めて説明を行い、納得がいかないと批判する議員に対して、「多大なるご迷惑をおかけした」と陳謝した。
 豊洲市場問題と東京五輪の会場問題については引き続き議会で審議予定。