日善と徳川家康。

<江戸学>
◆東金御殿があった千葉東金の西福寺(現・最福寺)の日善は、「大坂冬の陣」が行なわれた慶長19年(1614)に徳川家康と数回にわたり会談、豊臣家撲滅を強く進言したとか。現在の本堂へと続く坂道の途中に日善と、徳川家康の対談の模様を、再現したブロンズ像がある。家康が鷹狩の際、休憩に使った「東金御殿」(現県立東金高校敷地)で家康公と会談。その八ヶ月後、「大阪冬の陣」(慶長十九年、一六一四、十一月)の直前にも、駿府城内で家康公に拝えつ。しばし話し合いを行っていたことが「駿府記」(慶長十九年九月)に「二十日、上総國東金西福寺日善上人御目見日蓮宗也」と出ている。また、「台徳院実記」(慶長十九年、九月二十日)にも「総州東金西福寺日善」駿府城にのぼりて拝謁す」とある。(http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20160311)また、最福寺の本堂は、約三百年前日胤上人の時代、元禄十六年(一七〇三年)から宝永六年(一七〇九年)までの六年間を費やし、八鶴湖畔にあったのを人夫一万人余を要して現在の所に移し建立した。その時本堂に使われた丸柱四〇本は、江戸浅草の観音様の古材を譲りうけたものと伝えられている。