寛永寺から上野公園を歩く③

東京文化会館
「首都東京にオペラやバレエもできる本格的な音楽ホールを」という要望に応え、昭和36(1961)年4月に大田道灌より東京都開都500年祭の記念事業として開館。近代建築の巨匠ル・コンビュジェの弟子である建築家前川國男の代表作で、1961年日本建築学会賞作品賞を受賞した。すでに、神奈川県立音楽堂などの開館はあったものの、東京の本格的なクラシック音楽のホールとしては初期のものといえる。東京文化会館(とうきょうぶんかかいかん、Tokyo Bunka Kaikan)は、東京都台東区上野公園の一角にある東京都立のホール。大ホール、小ホールの他、リハーサル室、会議室、レストラン、音楽資料室を擁する。指定管理者制度により公益財団法人東京都歴史文化財団グループ(公益財団法人東京都歴史文化財団、株式会社エヌ・エイチ・ケイ・アート、サントリーパブリシティサービス株式会社の共同事業体)が管理と運営を行っている。東京都交響楽団が本拠地としているホールでもある。 また、ウィーン国立歌劇場などの海外著名歌劇場が来日した際は、必ずと言っていいほど東京文化会館で公演を行っている。1961年に第3回BCS賞を受賞。2003年にDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選ばれている。
 1982年のクラシック音楽専用のザ・シンフォニーホールを皮切りに1986年のサントリーホール等、最新の音響設計技術を用いたホールが開館されるにつれて、東京文化会館は「古いホール」のイメージが強くなっていったが、1999年に竣工した改装により、それは払拭された。スペースに余裕のないことが多い日本国内のホールの中で、バックステージの広さなどのゆとりの大きさは貴重であり、海外の有名歌劇場が来日した際は公演に使用されることが大変多い。2004年より2011年まで大賀典雄が館長を務めたが、大賀の逝去により、2011年9月1日付で日枝久(フジテレビ会長)が館長に就任した。2012年7月1日より音楽監督小林研一郎が就任。大賀の前任者だった三善晃館長時代には、都知事である石原慎太郎の運営方針と対立したこともあった。
 クラシック音楽の殿堂オペラの聖地として名高く、ポピュラー音楽がステージに上ることは無かったが、2006年2月22日から2月26日に小ホールで大友直人企画、木粼徹プロデュースによる『Popular Week LIVE in 東京文化会館』が行われた。これは東京文化会館45年の歴史上初めてのポップスの自主興行であった。尾崎亜美弦楽四重奏で数々のヒット曲を綴り、井上尭之は生ギター2本とヴァイオリンで「愚か者」等を歌った。フレッシュな魅力でエネルギーを発したのが「Saigenji」、更に小曽根真はピアノソロに挑戦し、最終日は穐吉敏子Monday満ちる初の親子デュオ。最近では、月の203号室がJ-POPアーティストとして公演を行っている。
 2006年3月3日・4日には大ホールで東京文化会館の45周年と加山雄三の芸能生活45周年を祝うガラ・コンサート (祝典) が行われた。 「加山雄三 with 大友直人 シンフォニック・ガラ・コンサート」で、千住明をはじめとする5人の編曲家によって加山サウンドをオーケストラサウンドに蘇らせた。プロデューサーで構成・演出をしたのは、加山の還暦の祝いに日本初のトリビュート・アルバム「60 CANDLES」をプロデュースした木粼徹。彼は、東京文化会館音楽監督である大友直人の古くからの友人であったために、革命的なコンサートが実現した。なお、東京文化会館の公式の英字表記は「Tokyo Bunka Kaikan」である(ただし、上野駅並びに本館周辺の案内表示では「Tokyo Metropolitan Festival Hall」または「Tokyo Festival Hall」などと表記されている場合がある)。2014年、建物を改築し、新たにリニューアルオープン。

国立西洋美術館
 国立西洋美術館(こくりつせいようびじゅつかん、英: National Museum of Western Art、NMWA)は、東京都台東区の上野公園内にある、西洋の美術作品を専門とする美術館である。独立行政法人国立美術館が運営している。
国立西洋美術館印象派など19世紀から20世紀前半の絵画・彫刻を中心とする松方コレクションを基として、1959年(昭和34年)に設立された。実業家松方幸次郎は20世紀初めにフランスで多くの美術品を収集したが、コレクションは第二次世界大戦後、フランス政府により敵国資産として差し押さえられていた。松方コレクションが日本に返還(一部名画は未返還)される際の条件として、国立西洋美術館が建設されることになった。
 本館の設計はル・コルビュジエによるが、彼の弟子である前川國男・坂倉準三・吉阪隆正が実施設計・監理に協力し完成した。なお新館は前川國男前川國男建築設計事務所)が設計した。
 本館は、1998年(平成10年)に旧建設省による公共建築百選に選定。2003年にはDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選定され、2007年(平成19年)には「国立西洋美術館本館」として国の重要文化財に指定された。また、前庭・園地は、2009年(平成21年)に「国立西洋美術館園地」として国の登録記念物(名勝地関係)に登録されている。
 現在は松方コレクションに加えてルネサンス期より20世紀初頭までの西洋絵画・彫刻作品の購入を進め、常設展示している。なかでも西洋のオールド・マスター(18世紀以前の画家)たちの作品を見ることができる美術館として、日本有数の存在である。「西美(せいび)」の略称で呼ばれることもある。
 川崎造船所(現・川崎重工業)社長を務めた実業家松方幸次郎(1865 - 1950年)は、1916年(大正5年)、商用でロンドンに渡った時に美術品の収集を始めた。松方が集めた多数の西洋美術品のうち、千数百点は1928年から1934年にかけて日本国内で売りたてられ、散逸した。これらの中にはブリヂストン美術館等、日本国内の美術館に収蔵されているものもあるが、所蔵先不明のものも多い。松方の収集品はこのほかにもロンドンの倉庫に約300点、パリのロダン美術館に約400点が預けられていた。このうち、ロンドンの倉庫にあった分は、1939年の火災で焼失。パリにあった約400点は第二次世界大戦後、敵国資産として、フランス政府に接収された。この約400点が、今日一般に松方コレクションと呼ばれるもので、近代フランスの絵画・彫刻が中心である。
 1951年(昭和26年)のサンフランシスコ平和条約締結の際、日本の首相・吉田茂は、フランスの外相ロベール・シューマンに松方コレクションの返還を要請。その後の日仏政府間の交渉の結果、フランス側は条件付きで返還に応じることとなった。その条件とは、日本政府がコレクションを展示するための専用の美術館を設置すること、美術品の輸送費は日本側が負担すること、ロダンの作品『カレーの市民』の鋳造費は日本側が負担すること、の3つであった。日本側が美術品の「返還」を希望したのに対し、フランス側は、美術品はいったんフランスの所有となったものであり、フランスから日本へ「寄贈」するとの立場であった。このため、国立西洋美術館では「寄贈返還」という言葉を使い、パンフレット等にも「フランス政府から寄贈返還された松方コレクション」と紹介している。コレクションのうち、21点は維持管理費捻出のため、1947年に売却された。また、ゴッホの『アルルの寝室』などの名品18点は寄贈(返還)対象からはずされてフランスに残されることとなった(オルセー美術館等が所蔵)。その結果、日本に寄贈されたコレクションは絵画308点、彫刻62点、書籍5点の計375点である。なお、「彫刻62点」には、日本側が鋳造費用を負担したロダンの『カレーの市民』は含まれていない。松方幸次郎本人は、こうしたいきさつを知ることなく、1950年に他界した。
1953年(昭和28年)末、当時の文部省は「仮称フランス美術館設置準備協議会」を設置した。しかし、当時の日本は財政難で、新しい国立美術館を造る余裕はなかった。文部省は1954年度予算に美術館建設費として1億5千万円を要求したが、認められたのはわずか500万円であった。そこで、文部省としては、東京・上野の東京国立博物館内の一展示館である「表慶館」を松方コレクションの展示場に充てようとしたが、フランス側はこれに不快感を示した。1954年初めに来日した、ルーヴル美術館館長(フランス国立美術館総長)のジョルジュ・サールは、松方コレクション専用の新たな美術館を早急に建設するよう、日本政府に要求した。こうした中、1954年には実業家・政治家の藤山愛一郎が中心となって「松方氏旧蔵コレクション国立美術館建設連盟」が結成され、1億円を目標に寄付金集めが始まった。連盟では当時活躍していた著名美術家たちにも協力を求めた。すなわち、大口の寄付者には見返りとしてこれら著名美術家の作品をプレゼントしようというものであった。この提案に対し、美術家たちははじめ難色を示していたが、ある会議の席上、洋画家安井曾太郎が「このコレクションが戻ってきて、一番恩恵を受けるのは誰か。われわれ美術家ではないか」と発言したことがきっかけで、美術家たちは進んで協力するようになったという。1954年11月には補正予算で建設費5千万円が認められた。
建設地はいくつかの候補地の中から、上野公園内、寛永寺の子院の凌雲院跡地と決まり、建物の設計は20世紀建築の巨匠ル・コルビュジエに依頼することも1954年に決まった。
 1955年(昭和30年)3月には建設予定地にて鍬入式を挙行。同年11月にはル・コルビュジエ本人が来日して、建設予定地を視察した。ル・コルビュジエは京都、奈良を訪問した後、帰国するが、彼にとってはこの8日間の日本旅行が最初で最後の来日であった。ル・コルビュジエからは1956年7月に基本設計案、1957年3月に実施設計案が届く。これをもとに、彼の弟子にあたる前川國男、坂倉準三、吉阪隆正が実施設計を行い、建てられたのが、今日の国立西洋美術館本館である。ル・コルビュジエの設計案は、美術館本館のほか、講堂と図書館の入る付属棟、劇場ホール棟を含む大規模なものであったが、財政難のため付属棟と劇場ホールの建設は見送られた。ただし、ホールについては、後に美術館の向かいに東京文化会館前川國男設計)が建てられ、形を変えて実現している。
 1959年(昭和34年)1月23日、フランス外務省にてコレクションの日本への引渡式が行われ、4月には作品が船で日本へ到着した。同じ4月、国の機関としての国立西洋美術館が設置され、富永惣一が初代館長に就任した。同年6月10日、高松宮宣仁親王夫妻や岸信介首相らの臨席のもと、開館式が挙行され、6月13日から一般公開が開始された。開館から1か月で9万人が入場する盛況で、初年度の入場者数は58万人に達した。
 松方幸次郎の収集品は、さまざまな地域・時代の西洋美術品を含み、家具やタピスリーなども収集されていた。しかし、日本へ寄贈された松方コレクションは一部を除いてフランス近代の絵画・彫刻に限られていた。そのため、館ではルネサンス期以来のいわゆる「オールド・マスター」の作品の購入に努め、今日では、西洋美術史の流れに沿った体系的な展示が行われている。1964年(昭和39年)7月には講堂・事務棟が竣工するが、これは現存しない。 開館20周年の1979年には、本館の背後に地上2階、地下2階の新館が開館した。新館の設計者は前川國男(本館の設計者ル・コルビュジエの弟子)で、緑釉タイルを貼った外観が特色である。新館の開館によって展示面積は2倍に増え、版画・素描専用の展示室も設置された。従来は特別展開催のたびに平常展示の松方コレクションを撤去していたが、展示面積の増大により、松方コレクションの常時陳列が可能となった。1997年には、本館前庭の地下に企画展示室がオープンし、以後、特別展はここで行われている。
 館では、平常展示とともに、特別展を随時開催している。中でも1964年に開催された展覧会「ミロのビーナス特別公開」は話題を呼び、4月8日から5月15日まで、38日間の会期中に83万人が来場。1つの展覧会の入場者数としては当時の日本最高記録となった。入場のための行列は、上野公園内を縦断して西郷隆盛像の下の公園入口まで続いていた。1994年に開催された「バーンズ・コレクション展」は、門外不出のコレクションの初公開とあって空前の反響を呼び、62日間の会期に107万人が来場。入場待ちは、混雑する日には7時間という記録がある。
本館は、ル・コルビュジエの基本設計をもとに建てられ、1959年に開館したものである。緑色の外壁は、近付いてみると、緑色の小石を全面に貼り付けたものであることがわかる。ただし、現在の外壁は建設当時のオリジナルではなく、後に改修したものである。建物の平面は正方形で、各辺に7本ずつのコンクリート打ち放しの円柱が立つ。これらの円柱は、2階では壁から離れて立つ独立柱となっている。1階部分は本来はピロティ(高床)構造となっていたものだが、現在ではガラスの外壁が設置され、1階の大部分が室内に取り込まれている。1階中央部分は、屋上の明かり取り窓まで吹き抜けとなったホールで、ル・コルビュジエによって「19世紀ホール」と命名され、現在はロダンの彫刻の展示場となっている。1階から2階へは、彫刻作品を眺めながら上れるように、階段ではなく、傾斜のゆるい斜路が設けられている。
 2階は、中央の吹き抜けのホールを囲む回廊状の展示室になっている。これは、ル・コルビュジエの「無限成長建築」というコンセプトに基づくもので、巻貝が成長するように、将来拡張が必要となった際には外側へ、外側へと建物を継ぎ足していける構造になっている。本館正面に向かって右側にある外階段は、本来出口として設計されたものだが、実際には一度も使用されず、立入禁止となっている。2階展示室は、内側部分の天井高が低くなっている。この低い天井の上は、自然光を取り入れ、明るさを調整するためのスペースとして設けられたものだが、現在は自然光でなく蛍光灯を使用している。また、2階展示室の北・東・南の3箇所には中3階が設けられ、細い階段が設けられている。ここは小型の作品の展示場として設けられたものだが、階段が狭くて危険であるという理由で、一度も使われたことがない。
・免震装置の展示
 国立西洋美術館は、1998年に地下を含めすべてを地盤から絶縁する大規模な免震レトロフィット工事を行った。これは本格的な免震レトロフィット工事としては日本初のものである。これにより、ル・コルビュジエの建築だけでなく、人命と作品も地震から守り、美術館として安全に使い続けることが可能となった。また、前庭の彫刻にも免震台を設置するなど、建築物や芸術作品を地震から保護することに積極的である。免震のメカニズムを解説したパネルを添えるなど、その重要性を伝えている。
世界遺産登録を諮問機関が勧告
 文化庁は17日、東京・上野公園の国立西洋美術館本館を含む7カ国17点の「ル・コルビュジエの建築作品」について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関が世界遺産に「記載」すべきだと勧告したと発表した。7月にトルコで開かれる世界遺産委員会で正式に決定される見通し。国内の世界遺産は20件目で、他国にまたがっての登録は初めてとなる。コルビュジエはフランスの建築家で、近代建築の巨匠。国立西洋美術館本館は国内唯一の作品で、1959年に完成した。らせん状の回廊や1階部分を柱だけで構成する「ピロティ」などが特徴。