寛永寺から上野公園を歩く④

正岡子規野球場
正岡子規記念球場(まさおかしききねんきゅうじょう)は、東京都台東区上野恩賜公園内にある球場で、プロ野球大学野球などのリーグ戦や公式戦を行われる球場ではなく草野球などが行なえる東京都が管理するレクリエーション施設で使用する際は予約が必要になる。正式名は上野恩賜公園正岡子規記念球場。グラウンドは、内野は土、外野は天然芝を施してある。
 この球場の名前を冠している正岡子規は、明治初期に日本に野球が紹介されて間もない頃の愛好者であり、1886年明治19年)から1890年(明治23年)頃、この球場がある上野公園内で野球を楽しんでいたという。その証拠に子規の随筆「筆まかせ」の中に、明治23年3月21日午後、上野公園博物館横の空き地で試合を行ったことが書かれており、その時子規は捕手を守っていたことが分かる内容が書かれている。
 その後、子規は野球を題材とした俳句や短歌・小説・随筆を発表して野球の普及に貢献した。このような功績を称え、上野恩賜公園開園式典130周年を記念し、2006年(平成18年)7月21日に上野恩賜公園野球場で句碑の除幕式と正岡子規記念球場の愛称が披露された。句碑には「春風や まりを投げたき 草の原」の句が刻まれている。

●摺鉢山古墳
 摺鉢山古墳(すりばちやまこふん)は、東京都台東区上野恩賜公園内にある前方後円墳。墳丘は遺存状態が悪く、そのため円墳とみる説もある。残存長70メートル、後円部径43メートル、高さ5メートル、前方部幅23メートル。葺石は不明で、埴輪片が採取されている。かつてこの古墳を中心に古墳群が形成されていたが、ほかの古墳はすべて破壊された。

天海僧正毛髪塔
・西郷さんの銅像の北側に天海僧正毛髪塔がある。木陰にあるのであまり目だたない。天海大僧正寛永20年(1643)に寛永寺子院の本覚院で108歳でなくなったといわれている。遺命により日光山に葬られ、上野(旧本覚院跡)には供養塔が建てられました。その後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ、毛髪塔とよばれるようになったそうです。
 天海(天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は陸奥国会津高田に生まれた。蘆名氏の出身と言われています。生年には各説がありますが天文5年(1536)説が有力である。天海は会津の黒川稲荷堂別当の弁誉舜幸のもとで得度し「随風」と名のりました。のち関東から比叡山三井寺興福寺で遊学した。
 23歳の時に母が病死したため一時帰郷した後、再び遊学の旅に出て、永禄3年(1560)から4年間足利学校に学びました。その後、再び比叡山に登ろうとしましたが、織田信長比叡山焼き打ちに遭遇した後、武田信玄に招かれて、講師を務めたこともあるようだ。天正元年に、故郷の黒川稲荷堂別当となり、天正5年(1577)上野国世良田(せらだ)長楽寺において春豪(しゅんごう)に師事し、さらに天正18年(1590)川越喜多院で僧正豪海に師事し、名を天海と称しました。
 天正19年(1591)蘆名盛重が小田原北条氏攻略の戦功により、常陸国河内郡に4万8千石を与えられると、盛重の懇請により江戸崎の不動院の住職となった。天海は徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。

●殉死者の墓
 東京国立博物館の前に、「殉死者の墓」がある。寛永寺の開山堂や輪王殿の北東方向の位置にある。殉死者の墓は、慶安4年(1651)4月20日、三代将軍徳川家光が死去した際に、その後を追って家光の家臣5名が殉死しました。そのうち、家臣4名の墓が現龍院の墓地の中にあり、「殉死者の墓」という史跡となっている。現龍院の撥は通常は施錠されていて自由には参拝できない。現龍院は、春日局が、局の夫稲葉正成の菩提のために天海大僧正と相談して建立したお寺だそうです。堀田正盛は、春日局の孫ですので、現龍院と堀田正盛とは関係があります。そこで、現龍院の第三世の亮伝大僧正が、殉死者を埋葬したいと幕府に願い出て、4人が現龍院に埋葬されるようになったそうです。堀田家や稲葉家や阿部家の菩提寺は別にあるので、殉死した人たちだけが葬られているそうです。家光に殉死したのは5人いますが、そのうち、堀田正盛阿部重次、内田正信、三枝守恵の4人の墓がある