15 代将軍慶喜

<江戸学>
◆第15代将軍慶喜
 慶喜水戸藩9代目藩主徳川斉昭の7男として、天保8年(1837)江戸小石川の水戸藩邸で生まれた。母は正室の有栖川吉子(貞芳院)である。斉昭は長男・慶篤以外の男子は光圀公以来、国許での教育方針のため慶喜は9年間水戸藩邸で過ごした。弘化4年(1847)御三卿一橋家の養子となって家督を相続した。この相続は12代将軍家慶が斉昭の子で頭脳明晰な慶喜に将軍継承させることが目的であった。嘉永6年(1853)黒船来航の最中、12代将軍家慶の病死、13代将軍家定は病弱で継嗣の見込みなく将軍継嗣問題が浮上する状況にあった。安政2年(1855)12月一条美賀子(貞粛院)を正室に迎える。慶喜の上洛などで江戸一ッ橋屋敷での長い別居生活を過ごすことになる。また、慶喜が将軍在職時に江戸城に入城していないので美賀子は将軍正室でありながら一度も江戸城に移ることはなかった。慶喜を推す一橋派と家茂を推す南紀派が対立していたが、安政5年(1858)大老に就任した井伊直弼南紀派の推す家茂を将軍継嗣と定めた。同年、直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を締結する。水戸藩は光圀公の家訓「幕府より朝廷尊奉」であり、慶喜は父斉昭、松平慶永らと登城して直弼に詰問したため、翌年に安政の大獄の一部となる隠居謹慎処分を受ける。安政7年(1860)3月3日の桜田門外の変における直弼の死を受け慶喜の謹慎は解除された。
 文久2年(1862)7月、慶喜は朝廷の命により将軍後見職に就任するが、元治元年(1864)3月、禁裏(京都御所)守衛総督に転じたため後見職は廃止された。同年7月19日禁門の変では慶喜自ら御所守備軍を指揮して鷹司邸を占拠した長州軍を攻撃した。この時、慶喜は歴代将軍家の人物で唯一馬にも乗らず敵と刀で戦ったとされる。

・蛤御門 (高麗門型式の鉄筋門)
天明8年(1788)京都史上最大規模の大火で京都御所が炎上した時、滅多に開かない「新在家門」が開き、固く閉じた蛤が火に炙られて開くことで「蛤御門」との俗称が定着した。禁門の変蛤御門の変)は長州藩公武合体の排除と京都での復権を目指して会津藩に挑んだ武力衝突である。会津藩の守備する蛤御門周辺が最大の激戦地となる。福岡藩が守る中立売門では長州藩が門を突破し京都御所内に入り優勢となる。その期を窺っていた西郷隆盛の率いる薩摩藩が介入すると長州藩が劣勢となる。長州勢は敗走時に町に火を放ち、御所内に向け発砲したため朝敵となった。

 慶応2年(1866)第2次長州征伐最中の将軍家茂の病死に伴い、慶喜は12月5日徳川宗家を相続して15代将軍に就任した。慶喜政権は会津藩桑名藩の支持のもとで対立していた小栗忠順ら幕閣の改革派とも和解し、朝廷との密接な連携で慶応の改革を推進した。慶応2年12月12日、孝明天皇(35歳)が痘瘡(天然痘)で崩御され、睦仁親王(14歳)が122代の天皇として即位された。孝明天皇崩御され、睦仁天皇が即位すると、それまで追放されていた親長州派の公卿らが続々と復帰を果したことで天皇の死因に対する不審説が漏れ広まった。時代の変遷でタブー視されていた不審説の論争が再び繰り広げられ、病死説と毒殺説ともに物的証拠に乏しく決着に至らない。しかし、孝明天皇の死因となった天然痘の感染ルートが不明だが、すでに種痘の普及が始まっており、それを拒否する頑固な攘夷論者は外国嫌いであった。宮中に天然痘の保菌者を出入りさせれば、天皇を始め攘夷論者のみに感染することになる。たとえ死に至らずとも政界から引退させる目論見があったという推論もある。

・大政の奉還
薩長同盟で武力倒幕が進む中、土佐藩山内豊信が朝廷へ政権を自発的に返還するよう慶喜に進言する。慶喜は京都二条城に諸藩の重臣を集め、慶応3年(1867)10月14日、天皇に幕府の政権を朝廷へ奉還を申し出る「大政の奉還」が行われた。慶喜は緊迫する政治情勢で内乱の勃発を深く懸念しており、政治体制の再編で政局の主導権を握ろうとした。

王政復古の大号令
慶応3年12月9日、公儀政体論の崩壊により倒幕派江戸幕府を廃絶した天皇による新政府の樹立を宣言した王政復古の大号令である。

 それに対し大阪城に退去した慶喜の主張した幕藩体制による大政委任の継続が朝廷より認められた。これに危機感を抱いた薩摩藩と幕府が慶応4年(1868)1月3日鳥羽伏見の戦いに突入する。この戦いで薩長軍が掲げた錦の御旗に動揺した旧幕府軍は大敗して「朝敵」の汚名を受ける。この勝利で窮地にあった新政府を巻き返せる結果となった。大阪城旧幕府軍に徹底抗戦を説いていた慶喜は1月6日夜半、側室、側近、老中、松平容保らと密かに脱出、大阪湾に停泊中の幕府軍艦・開陽丸で江戸に撤退した。総大将が逃亡した旧幕府軍は戦意喪失となり江戸や国許へ帰還した。
 慶喜小栗忠順ら抗戦派を抑えて朝廷への恭順の姿勢を示すと勝海舟に後を任せて、上野寛永寺大慈院でひたすら謹慎した。しかし、慶喜は朝敵とされ追討令が下り、東征大総督有栖川宮織仁親王の新政府軍が東征を開始する。慶応4年4月11日新政府軍が江戸総攻撃の中止で江戸開城を以て江戸幕府は滅亡した。鎌倉時代から700年近く続いた武家政治の終焉である。
 その後の慶喜彰義隊や旧幕臣の暴発を恐れ、4月11日未明に寛永寺大慈院を出て水戸に向い弘道館の至善堂で謹慎を継続した。7月に徳川家が駿府城へ移封となり、慶喜32歳は蟠竜丸で海路、駿河の宝台院に移り謹慎を続けた。明治2年(1869)9月28日戊辰戦争終結すると慶喜の謹慎も解かれたが、そのまま静岡に居住した。同年11月、正室の美賀子が静岡の紺屋町に赴き10年ぶり共に暮らすようになった。以後、慶喜は世間との縁を絶ち、徳川宗家から潤沢な隠居手当をもらい、多くの趣味に没頭した生活を送り「けいき様」と地元の人々に親しまれていた。維新後に側室となった新村信と中根幸の二人に10男11女を儲けたが、正室の美賀子が母として養育した。明治30年(1897)11月、慶喜61歳は東京巣鴨に転居すると、翌年皇城で明治天皇に拝謁する。明治34年(1901)文京区春日2丁目に移転、3000坪の敷地に1000坪の平屋を建てると、徳川宗家と別に徳川慶喜家を興し、貴族院議員に就任した。明治43年(1910)12月、7男徳川慶久に家督を譲り隠居生活に戻る。大正2年(1913)11月22日感冒にて死去。享年77歳。在位1年(1866〜67) 墓所谷中霊園 徳川家歴代将軍では最長命で最後の将軍となった。