7月20日は徳川家茂の命日。

<江戸学>
◆第14代将軍家茂は、 紀州藩第11代藩主・徳川斉順の二男として、弘化3年(1846)5月江戸赤坂の紀州藩邸で生まれる。父斉順は11代家斉の6男で紀州家へ養子に入り11代藩主となった。母は側室のお美佐の方(実成院)である。家茂は13代家定の従弟にあたる。嘉永2年(1849)叔父で紀州藩12代斉彊(なりかつ)の死去により養子として4歳で家督を継ぐ。家茂は、13代将軍家定の後継者として徳川氏の中で最も将軍家に近い血筋を根拠に大老井伊直弼南紀派の支持を受けて一橋派慶喜との抗争に勝利した。安政5年(1858)家茂(13歳)は第14代将軍となる。
桜田門外の変
大老井伊直弼による安政の大獄で恨まれ、勅許を得ずに日米修好通商条約を締結したこともあって、万延元年(1860)桜田門外の変大老井伊直弼が暗殺され風雲急を告げる幕末動乱へ向かう。
文久2年(1862)1月、老中安藤信正公武合体を推進し和宮降嫁を決定したが、尊王攘夷派から坂下門外の変で襲撃され失脚した。同年2月11日家茂は孝明天皇の妹・和宮親子を正室に迎えた。和宮とは政略結婚だが、歴代将軍の中で最も夫婦仲が良かった。
文久3年(1863)、徳川家将軍として3代家光公以来、229年ぶりに三千人を従えて上洛して義兄にあたる孝明天皇に攘夷を誓約した。元治元年(1864)8月、朝廷から追われた長州藩が武力によって逆転を図った禁門の変蛤御門の変)が勃発した。慶応元年(1865)5月16日、家茂は江戸城から大阪城に向かう。幕府は長州藩と激しく対立しており、権威復活を目指した第一次長州征伐では不戦勝に終わる。しかし、再び長州藩が対決姿勢を打ち出し、家茂は自ら第二次長州征伐軍の指揮を執るため江戸城を進発した。
・慶応2年(1866)6月、長州藩との戦端は開かれ、幕府軍は各所で敗北を喫する。家茂は敗色濃厚のなか大阪城で病に倒れた。家茂(21歳)は7月20日大阪城内で病死した。ここに幕府の権威失墜が決定的となる。
・在位7年9ヶ月(1858〜66) 紀州徳川家 墓所・芝増上寺 家茂は死に際で後継者に後の16代徳川宗家当主・家達を指名したが実現されず、慶喜が15代将軍となった。慶応2年7月20日徳川家茂の命日。