六騎神社と立花 宗茂

<江戸学>
柳川市の六騎(ろっきゅう)神社は、難波善長以下6騎の平家落武者(難波善長、加藤権内、浦川天ヶ左衛門、鳴神藤助、是永多七、若宮兵七)が、柳川沖端に移り住み漁業を始めたことが起源。当時の人々は平家の身分の高い人たちとして、6名の騎馬武者の意味で「六騎」と称した。関ヶ原戦後に改易された立花宗茂柳川藩主復帰後、沖端漁民は有明海での正式な漁業権を認められ、以後、漁師を六騎と呼びならわすようになった。

・立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、戦国時代の武将で、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。大友氏の一族で、重臣陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将はいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。慶長8年(1603年)江戸に下った宗茂本多忠勝の世話で、由布惟信、十時連貞など従者らとともに高田の宝祥寺を宿舎として蟄居生活を送り始め、慶長9年(1604年)忠勝の推挙で江戸城に召し出される。宗茂の実力をよく知っていた将軍・徳川家康から幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)として5,000石を給されることになり、まもなく嫡男・徳川秀忠の御伽衆に列せられて陸奥棚倉に1万石を与えられて大名として復帰した。同地で加増され2万5,500石の知行となり、慶長15年(1610年)には更に9,500石の加増を受けて最終的に3万5,000石の領地高となり、この頃から宗茂と名乗っている。
 大坂の陣のとき、大御所・家康は宗茂が豊臣方に与するのを恐れて、その説得に懸命に当たったという、そして大坂夏の陣は2代将軍・徳川秀忠の麾下に列してその軍師参謀を兼ね警固を担当し、大野治房の軍勢動向を予言的中や秀忠軍の進退を指導した。また豊臣秀頼が出陣しないことも予言して的中させた。 戦いの末尾は毛利勝永の軍勢を駆逐している。 元和6年(1620年)、幕府から旧領の筑後柳川10万9,200石を与えられ、関ヶ原に西軍として参戦し一度改易されてから旧領に復帰を果たした、唯一の大名となった。また戦国武将としては世代が若く、伊達政宗加藤嘉明丹羽長重らとともに、徳川家光に戦国の物語を語る相伴衆としての役目も果たした。なお、相伴衆となった晩年は秀忠・家光に近侍し、重用されたようで、将軍家の能、狂言、茶会の席や諸大名の屋敷が完成した際の披露会、上洛、大坂行き、日光社参などに随伴している。