江戸城の石垣はどこから来たのか

<江戸学>
江戸城の築城石
江戸城の石垣はどこから来たのか
徳川家康は、江戸に幕府を開いた翌慶長9年(1604)6月1日、江戸城の城郭拡張工事「天下普請」を全国28大名に命じた。築城石を産出しない江戸での築城における最大の問題は石垣用の石材の調達であった。家康は小田原北条氏の石垣御用を勤めていた青木家を中心とした石工衆と安土城築城以来の穴太衆石工集団をもって、伊豆半島東海岸の表層の凝灰岩の下にある安山岩を築城石と定めた。真鶴、熱海、宇佐美、伊東、川奈、稲取、下田などの石切丁場より石材を海上運搬と定めた。
慶長11年(1606)3月から築城石運搬船の造船、石切出場の調査、運搬準備が行われた。賦役を課せられた主な西国の外様大名は、浅野幸長和歌山藩37万5千石)、福島正則(広島鞆藩49万8千2百石)、蜂須賀至鎮徳島藩25万7千石)、細川忠興(中津藩39万9千石)、黒田長政福岡藩52万3千石)、尼崎又次郎(堺の豪商ら運搬船100隻献上)であった。これらの石高合計530万石にのぼり、10万石に付き、百人持ちの巨石1,120個を課せられた。福島正則の場合、4.982×1.120=5.580個となる。3000艘の運搬船に1艘あたり2個積み江戸と伊豆の海路を月2往復と定められた。
 石材の切出し方法は、寸法に見合う石の目を読める石工が墨壷でケガキ線を入れ、その線に沿って石工がノミと玄翁で小さな箭穴(やあな)を一定の間隔で穿つ。その箭穴に張り廻しでクサビを打込むと石が割れた。それでも割れない場合は、樫の木の楔を打込み、水を入れて一晩置くと木が水を含んで膨張し自然と割れる。石材の移動には、修羅という木製のソリに載せて斜面を曳き下ろして石運搬船に載せる。修羅の語源は、ソリに載せる大石を音読みすると「タイシャク」で帝釈天につながることから、神話にある帝釈天と阿修羅神の激闘にちなみ、帝釈(大石)を動かすのは修羅であると名付けた。極めて危険な急斜面の石曳を修羅場と呼び、今日でも男女の争いを修羅場と呼んでいる。さて、運搬船で江戸に着くと百人持ちの巨石石一つは銀二十枚、ごろた石は一間四方の箱一つを小判3両と定めている。石工の給料は、穿った矢穴に入るだけの米が支給された。