山川家初代・城官こと貞久

◆東京北区の城官寺にある史跡「山川城官一族墓碑群」。山川家初代・城官こと貞久は、徳川家光近習だったが病により失明。鍼灸の道を修め、2代将軍秀忠・3代家光の「談伴衆」(将軍の学問の相談役や健康管理役)として近侍、最高位の検校にまで昇進。
・山川 貞久(やまかわ じょうきゅう)は慶長年間(1596〜1615)頃から徳川幕府に仕え、徳川家光公に侍する検校(けんぎょう)。通称を城官(じょうかん)と言い、検校とは、目の不自由な人が租属する当道座(とうどうざ)という職能集団における最高位の官職のことである。将軍家侍医の城官は永年鍼治療を施し、将軍家から好待遇を受けていた。徳川家光公訪問の際、急な病で倒れた。城官は昼夜そばに仕えて、いざとなれば自分が身代わりになることを武蔵国豊島郡の平塚明神(現在の平塚神社)に祈っていた。ほどなくして将軍の容体は回復した。城官は私財を投じて平塚明神社殿を建て直し、社殿を寄付して管理のための寺院を建立した。(当時は神仏習合であり、神社内に寺があることが一般的でした。)寛永十七年(1640)、三代将軍・徳川家光公が訪ね、「誰がここまで造営したのか」と尋ねた。そこで村役人が貞久が再興したこと、さらに家光公が病気になったとき快復を祈願していたことを申し伝えた。このことが将軍の耳に入り、すぐに城官を御前に呼んだ。神領の寄付があり、城官にも領地を与えられた。平塚明神へ社領として50石、城官への忠義に対する恩賞として知行200石を与え、安楽寺の寺号を改めて平塚山城官寺安楽院と称すべし、との命があったそうである。