第10代将軍家治

◆10代将軍家治は元文2年(1737)9代将軍家重の長男として江戸城西ノ丸に生まれる。母は側室お幸の方(至心院)である。家治は幼少から祖父吉宗の期待を一心に受け、つねに吉宗の膝の上に抱いて寵愛を受け、家重に伝授できなかった帝王学などの教育指導を直接おこなった。宝暦10年(1760)5月、父家重の隠居により徳川宗家の家督を相続し、9月に第10代将軍職を継承した。家治は父家重の遺言に従い田沼意次側用人に重用し、老中松平武元らと幕政に励んだ。しかし、松平武元が死去すると新たに老中に任命した田沼意次に幕政を任せ、自らは将棋、猿楽、書画、鷹狩など趣味の世界に没頭した。 宝暦12年(1762)側室お知保(蓮光院)に長男家基が生まれる。安永8年(1779)家基は鷹狩の途中に立ち寄った品川の東海寺で突然、体の不調を訴え16歳で急死した。家治は自らの後継ぎが急逝したため嘆き悲しみ憔悴とともに紀州将軍宗家の血筋は断絶した。
 老中田沼意次は、紀州藩士の家系で家重の西丸小姓を務め、家治の側近に抜擢された。老中田沼を中心とした幕閣は数々の幕政改革を手掛け、田沼時代と呼ばれる幕政の実験を掌握した。しかし、重農主義から重商主義へと政策を進めたが初期の資本主義化が社会生活での金銭至上主義となり幕閣や役人と商人との贈収賄が横行し荒廃していった。都市部の町人の文化が発展する一方、利益の薄い農業で困窮した農民が耕作放棄して都市部へ流れ込んだ。これらの急激な改革が保守的な幕府閣僚の反発を買い、天明4年(1784)田沼の長男で若年寄田沼意知江戸城内で佐野善左衛門正信に刺殺された。天明6年(1786)8月田沼は老中を解任され、2年後70歳で死去した。こうした世相の中で明和9年(1772)2月明和の大火(行人坂の火事)、天明2年(1782)〜天明8年までの天明の大飢饉天明3年(1783)浅間山天明大噴火などの大災害が襲った。天明元年(1781)家治は一橋家徳川治斉の長男家斉を次期将軍にする養子に迎えた。天明6年(1786)8月、家治は脚気による心不全で死亡。在位26年4ヶ月(1760〜86)享年50歳。