11代将軍徳川家斉。12代将軍家慶。(再掲)

◆第11代将軍家斉は、安永2年(1773)10月、御三卿一橋家の第2代徳川治斉の長男に生まれる。吉宗の曾孫にあたり、母は側室のお富の方(慈徳院)である。10代将軍家重の長男家基の急死で天明元年(1781)5月に家治の養子となり江戸城西ノ丸に入り家斉と称した。天明6年(1786)家治(50歳)の死去にともない、翌年、家斉15歳で第11代将軍を継承した。将軍に就任すると、田沼意次を失脚させて、御三家の推挙による白河藩主の松平定信を老中首座に任命した。これは家斉とともに11代将軍と目されていた定信を御三家が立てて、若き家斉が成長するまでの代繋ぎとした。定信によって賄賂政治とも呼ばれた田沼時代を粛清した「寛政の改革」で元の重農主義に戻したが、あまりに清廉な政治を目指しすぎ庶民の不評が高まった。「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」と狂歌に詠われた。
 寛政元年(1789)2月、家斉は第8代薩摩藩主の島津重豪の娘近衛寔子(広大院)を正室に迎えた。両家の正室が姉妹であり、両名は3歳のときに婚約し一橋邸で養育された。慣例にならい島津茂姫は近衛家の養女となり寔子(ただこ)と改名し、義理のいとこ同士で婚約から13年後の婚儀となった。寛政8年(1796)家斉の5男が生まれる。御台所が男子を産むのは2代秀忠正室お江与以来であったが夭折する。しかし、その3年前に側室お楽の方(香琳院)が生んだ二男の家慶が将軍家世継とすでに定められていた。幕政は側近に任せた家斉は、17歳の時に側室に長女が生まれると、以後、特定できるだけで17人の側室に毎年一人のペースで子供ができ続け、男子26人・女子27人計55人の子女をもうけた。しかし、成年まで無事に成長したのは28人である。子女を多く儲けたのは徳川家の天下を一橋家の系統で押さえるため、家斉の子を正室や養子として迎えた大名家に対しては特別な待遇が与えられた。
 文政10年(1827)加賀藩主12代前田斎泰に輿入れする11代将軍家斎の21女・溶姫を迎えるために御守殿門を設けた。中央の薬医門は切妻造り、左右に唐破風造りの番所を置いた。門の型式は大名の格式で定められ、将軍家からの輿入れ門は朱塗りが慣例であった。この門は焼失すると再建が許されないため、前田家では自前の大名火消「加賀鳶」を置いて保存に務めた。(関東大震災東京大学の図書館は倒壊炎上して、多くの貴重な図書を焼失したが、米国ロックフェラー財団の多額の寄付により再建した。東京大空襲GHQ連合国軍総司令部)はこの図書館の保存を含む東京大学構内を総司令部として利用する目的で空襲を控えていた。占領後、GHQが接収に大学を訪れると教育を継続しなければ戦後復興に支障が生じると明け渡しを強硬に拒んだ。御守礼門は空襲を免れ、東京大学のシンボル「赤門」とし健在である。)
 やがて家斉との意見の違いから失脚した定信に代わって水野忠成、林多忠英らが実権を握り、田沼時代を彷彿させる賄賂時代が再び横行し始めた。「水の出て、元の田沼となりにけり」と狂歌に詠まれる。天保の大飢饉が起こり農民の暴動が起きる。さらに天保8年(1837)学者で元与力の大塩平八郎が武力討幕を策した騒乱で幕政への批判が高まった。天保8年4月、家斉は二男の家慶に12代将軍職を譲っても、大御所となって幕政の実権は握り続けた。晩年には老中の間部詮勝堀田正睦、田沼意正を重用した。天保12年(1841)1月、家斉69歳が死去した。墓所・上野寛永寺。家斉の50年に及ぶ将軍職在籍中に江戸幕府負の遺産が築かれ、幕末に大きく影響してゆく。また、一橋家は徳川徳丸で家斉の血筋は絶え、水戸家から慶喜が養子に入ることになる。

◆12代将軍家慶は、11代将軍家斉の二男として江戸城で生まれる。母は側室の香琳院である。文化6年(1810)有栖川宮織仁親王の第6皇女・楽宮喬子を正室に迎える。御台所に3子女が生まれるが夭折した。文政8年(1825)側室のお美津(本寿院)に4男家定が生まれる。翌年、側室お久(清涼院)に生まれた5男の慶昌の学友として勝麟太郎8歳が2年間江戸城に詰めている。慶昌は13歳で一橋家の6代当主に就任と同時に死去する。家定は8人の側室に14男13女を儲けたが殆ど早世し、20歳を超えて生きたのは家定のみであった。天保8年(1837)家慶(45歳)は、すでに長兄が早世しているため将軍職を譲られる。
 天保12年(1841)大御所として権勢を保持していた父家斉の死後、家慶は四男の家定を将軍継嗣に定めた。同年に起きた米国商船モリソン号への砲撃事件で幕府の対外政策を批判した高野長英渡辺崋山鳥居耀蔵言論弾圧したのが蛮社の獄である。父家斉の50年に及ぶ治世で腐敗した幕政を立て直すべく老中首座に水野忠邦を重用した天保の改革で質素倹約を推し進めた。しかし、天保14年(1843)大阪で幕領地の拡大編入で反発を受け、忠邦は失脚して天保の改革は挫折した。その後、土井利位、阿部正弘に幕政をゆだねる。また、家慶は水戸藩主・徳川斉昭の7男(慶喜)を一橋家を相続させた。
 嘉永6年(1853)6月3日、米国のペリー提督が4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れる「黒船来航」で幕政は風雲急を告げる。その対策に追われる最中の6月22日家慶(61歳)は死去する。