第13代将軍家定(再掲)

◆第13代将軍家定は、文政7年(1824)12代将軍家慶の4男として江戸城西ノ丸大奥で生まれる。母は側室のお美津(本寿院)である。父家慶は27人の子女を儲けたが成人まで生き残ったのは家定だけである。家定自身も生まれながらの病弱で癇癪持ちの奇行癖が目立っていた。父家慶は家定の将軍継嗣を危惧し、一橋家の慶喜を次期将軍に画策したが老中阿部正弘らの反対で家定に決定した。
 天保12年(1841)家定は鷹司任子(天親院)を正室に迎えた。嘉永元年(1848)正室の任子は疱瘡で急死した。翌年関白一条家の秀子(澄心院)を正室に迎えたが半年後に病死する。この事態を受け、大奥は薩摩島津家に縁組を持ちかけた。それは島津出身の広大院を正室に迎えた先々代の家斉公が長寿で子沢山であったことにあやかろうとしたのである。
 嘉永6年(1853)6月に父家慶が黒船来航後まもなく死去すると、家定は13代将軍に就任した。翌7年1月、ペリーが7隻の艦隊を率いて再来日すると幕府は3月に日米和親条約に調印した。
 安政3年(1856)11月、家定は三人目の正室・島津敬子(天璋院篤姫)を迎える。渋谷の薩摩藩邸から江戸城に向かう輿入行列は先頭が城内に到着しても最後尾は藩邸にいたという。翌安政4年家定の病気が悪化し、幕政は老中・阿部正弘堀田正睦の主導で行われた。篤姫は愛犬家で狆(ちん)を飼っていたが、家定が犬嫌いのため江戸城大奥では猫(さと姫)を飼っていた。
 しかし、篤姫との間に実子もなく次期将軍の後継者争いが激化していく。井伊直弼南紀派が推す紀州藩主の家茂と島津斉彬徳川斉昭ら一橋派が推す慶喜との間で次期将軍の座を争っていた。安政5年(1858)6月に家定は諸大名を招集して、家茂を将軍継嗣にする意向を伝えたが、幕末の難局に将軍として指導力を示すことはなかった。翌7月に家定(35歳)が急死すると、14代将軍に紀州藩主の徳川家茂を迎えたため、家慶の血筋は断絶した。
・家定の在位4年8ヶ月(1853〜58) 徳川宗家 享年35歳 墓所・上野寛永寺。家定の死を受け篤姫は落飾して天璋院を名乗る。