江戸検への道。試験日まで33日。

◆今日から勝負の10月に突入。合格するんだという気持ちをもち、人に負けない勉強量で勝負するしかない。不安もある、その不安は試験終了後に考えればよい。ともかく勉強するんだ。それが自分を支える証であり、試験への自分の励ましであり、自身につながる。

<今日の読書記録>
江戸城  完了
・幕末維新 読書中
・江戸博覧強記 ⑨ 読書中

◆朝から浜名湖遊覧。浜松駅前の「あつみ」でうな重を食べ、自宅に戻る。明日は実家へ。新幹線内でも勉強。来年の大河ドラマの舞台は奥浜名湖。どこに行っても来年の大河ドラマの紹介である。
 井伊 直虎(いい なおとら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての遠江井伊谷の女領主。同国の国衆・井伊氏の事実上の当主を務めて、徳政令などを行い、「女地頭」と呼ばれた。井伊直親と婚約したといわれるが生涯未婚であった。井伊直政ははとこであり、後に養母となった。
 遠江井伊谷城主(国人)の井伊直盛の娘として誕生。母は新野親矩の妹(祐椿尼)。生年は定かではないが、天文5年(1536年)前後に誕生したのではないかと言われている。幼名は不明。父・直盛に男子がいなかったため、直盛の従兄弟にあたる井伊直親を婿養子に迎える予定であった。ところが、天文13年(1544年)に今川氏与力の小野道高(政直)の讒言により、直親の父・直満がその弟の直義と共に今川義元への謀反の疑いをかけられて自害させられ、直親も井伊家の領地から脱出、信濃に逃亡した。井伊家では直親の命を守るため所在も生死も秘密となっていた。許嫁であった直虎は龍潭寺で出家し、次郎法師(次郎と法師は井伊氏の2つの惣領名を繋ぎ合わせたもの)という出家名を名乗った。直親はのちの弘治元年(1555年)に今川氏に復帰するが、信濃にいる間に奥山親朝の娘を正室に迎えていたため、直虎は婚期を逸すことになったとされる。その後、井伊氏には不運が続き、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて父・直盛が戦死し、その跡を継いだ直親は永禄5年(1562年)に小野道好(道高の子)の讒言によって今川氏真に殺された。直虎ら一族に累が及びかけたところを母・祐椿尼の兄で伯父にあたる新野親矩の擁護により救われた。永禄6年(1563年)、曽祖父の井伊直平今川氏真の命令で天野氏の犬居城攻めの最中に急死したため、永禄7年(1564年)には井伊氏は今川氏に従い、引間城を攻めて新野親矩重臣中野直由らが討死し、家中を支えていた者たちも失った。そのため、龍潭寺の住職の南渓瑞聞により、幼年であった直親の子・虎松(後の井伊直政)は鳳来寺に移された。
 永禄8年(1565年)、次郎法師は還俗して、直虎と名を変えて井伊氏の当主となった。「直虎」は仮名であって、本当の名前ではない。『井伊家伝記』によると「次郎法師は女こそあれ井伊家惣領に生候間」とあり直親の死去により、この次郎法師しか後継者がいなかった。具体的には直盛の未亡人と龍潭寺の南溪和尚が相談の上、女性地頭を誕生させた。なお、この時代の「地頭」は鎌倉時代の意味ではなく、領主の意味として使用されている。永禄8年9月15日、龍潭寺への寄進状に自らが黒印を押して寺領を確認している。自分の家の菩提寺ではあるが、公的な印判状を出し、書き止め文言も「仍如件」となっていることから、女性地頭として領域支配に取り組んでいたことがわかる。またこの文書で直虎はあえて「次郎法師」と名乗っており、つまり、直虎は「次郎法師」となることで、龍潭寺を中心とした宗教秩序の構築の主張に関わる権利と、井伊家の惣領としての権利の二つを入手することを可能にしていた。宗教的な権威と、実質的な権力を持つことで在地支配を実行しようとしていたと言えるのである。永禄9年(1566年)霜月吉日、直平の菩提を弔うために川名の福満寺に鐘を寄進する。同年今川氏真井伊谷一帯(井伊谷と都田川)に徳政令を出しているが、二年間発動されなかった。これは直虎が氏真の徳政をはねつけたためだが、永禄11年11月9日、徳政令の発動にふみきらざるをえなくなった。次郎直虎と署名した文書があり今川氏の関口氏経連署して徳政を蜂前神社に伝えている。この背景には、直虎は債権主である銭主方と結託して徳政を施行しようとはせず、農民は今川氏を頼りに徳政の実地をせまっていた状況がある。すなわち直虎と銭主方による徳政令拒否派と井伊氏の家老小野但馬守と結ぶ祝田禰宜ら徳政令要求派の対立があり、この状況は今川氏にとって井伊家に介入する絶好の機会となったといえる。小野道好の専横は続き、永禄11年(1568年)には居城・井伊谷城を奪われてしまうが、小野の専横に反旗を翻した井伊谷三人衆近藤康用鈴木重時菅沼忠久)に三河国徳川家康が加担し、家康の力により実権を回復した。元亀元年(1570年)には家康に嘆願し、道好の直親への讒言を咎め処刑する。しかし、元亀3年(1572年)秋、信濃から武田氏が侵攻し、居城・井伊谷城は武田家臣・山県昌景に明け渡し、井平城の井伊直成も仏坂の戦いで敗死すると、徳川氏の浜松城に逃れた。その後、武田氏と対した徳川・織田連合軍は三方ヶ原の戦い野田城の戦いまで敗戦を重ねたが、武田勢は当主・武田信玄が病に倒れたため、元亀4年(1573年)4月にようやく撤退し、直虎は三度井伊谷城を奪還した。その間、直虎は許嫁の直親の遺児・虎松(直政)を養子として育て、天正3年(1575年)、直政が15歳の時に徳川氏に出仕させ、その際に直政は300石を与えられる(『井伊家伝記』)。天正10年(1582年)8月26日、死去。家督は直政が継いだ。墓は井伊家の菩提寺である龍潭寺に、直親の隣にある。