順性院(お夏の方)(再掲)

◆お夏の方の父は京都の町人で弥市郎と言いました。弥市郎は、娘のお夏が家光の子を出産したことで士分に出世し岡部八左衛門重家と名のり、後藤枝重家と改名した。お夏は、京都で幼い頃から家光の正室孝子の実家である鷹司家に使われていた。そして、孝子が家光の正室となったため、孝子について江戸に下りました。お夏は、孝子付の女中でも「御末」という将軍お目見え以下の役職であり、将軍や御台所の目に留まることはないはずでした。
 しかし、将軍が大奥で入浴する際に世話をする「御湯殿」を任せられ、その際家光の手がつき懐妊した。このように湯殿で将軍や大名が身分の低い女中に手をつけ子供が生まれることは珍しかったことではないようで、「御湯殿の子」という言葉があるほどです。お夏は、寛永21年(1644)9月24日に長松を生みました。これが後の甲府宰相綱重です。この時、家光40歳でした。40歳は男の厄年に当たり、当時は厄年の子供は親に災禍をもたらすと信じられていたため、生まれる前から姉千姫(天樹院)の養子とされ、お夏も懐妊中から竹橋門内の天樹院の屋敷に移され、長松もそこで生まれました。お夏の方は、三代将軍家光の側室で、家光の次男である甲府宰相綱重を産みました。
 長松は、6歳で竹橋に屋敷を拝領し、8歳の時には15万3千石と賜り、10歳で元服し綱重と名乗ることとなりました。そして、万治4年(1661)に17歳で甲府25万石を賜り、そして参議に任ぜられ甲府宰相と呼ばれるようになりました。宰相とは、参議に任ぜられた人の呼ぶ名前です。しかし、延宝6年(1678)に綱重は兄の4代将軍家綱に先立って35歳の若さで亡くなってしまった。延宝8年(1680)に家綱が亡くなっていますので、もし、もう少し長生きしていれば、5代将軍は綱重になったはずです。しかし、綱重が亡くなっていたため、お夏の方の競争相手のお玉の方が生んだ綱吉が5代将軍となりました。
 家光が亡くなった後は落飾し順性院と名乗りました。将軍の妻妾と子供たちの略歴を書いた「幕府祚胤伝(そいんでん)」という資料によると「岡部八左衛門重家の女(むすめ)、藤枝日向守重昌の姉」と書かれていて、武士の娘のように書かれていますが、元々は、京都の町人弥市郎の娘と言われています。 岡部八左衛門重家というのは、父が出世して武士になった後の名前のようです。
 お夏の方の父や弟は、お夏の御蔭で出世しました。父の弥市郎は、一旦岡部八左衛門となのりましたが、綱重が甲府25万石の大名になると 藤枝摂津守重家と名乗り甲府宰相家の家老となった。また、お夏の方の弟も重昌と名乗り、甲府家の家老となった。このように側室の力によって出世した大名を「蛍大名」と言いました。お尻の光で出世した大名という意味のようです。しかし、側室のお夏の方の力によって5千石の旗本となった藤枝家ですが、江戸時代中期の天明年間に、また世間の注目をあびることになります。重昌から7代目になる藤枝安十郎教行は、天明5年(1785)7月13日に吉原京町2丁目大菱屋の遊女綾衣と、千束村で心中し藤枝家は改易となってしまいました。