松平治郷と滝沢馬琴

<今日の江戸学>
◆松平治郷とは
・松平 治郷(まつだいら はるさと)は、出雲松江藩の第7代藩主。直政系越前松平家宗家7代。江戸時代の代表的茶人の一人で、号の不昧(ふまい)で知られる。寛延4年2月14日(1751年3月11日)、第6代藩主・松平宗衍の次男として生まれる。明和4年(1767年)、父の隠居により家督を継いだ。将軍・徳川家治からの偏諱と祖父・宣維の初名「直郷」の1字とにより治郷(はるさと)と名乗る。この頃、松江藩は財政が破綻しており、周囲では「雲州様(松江藩の藩主)は恐らく滅亡するだろう」と囁かれるほどであった。そのため治郷は、家老の朝日茂保と共に藩政改革に乗り出し、積極的な農業政策の他に治水工事を行い、木綿や朝鮮人参、楮、櫨などの商品価値の高い特産品を栽培することで財政再建を試みた。しかしその反面で厳しい政策が行なわれ、それまでの借金を全て棒引き、藩札の使用禁止、厳しい倹約令、村役人などの特権行使の停止、年貢の徴収を四公六民から七公三民にするなどとした。これらの倹約、引き締め政策を踏まえ、安永7年(1778年)に井上恵助による防砂林事業が完成、天明5年(1785年)の清原太兵衛による佐陀川の治水事業も完了し、これらの政策で藩の財政改革は成功した。これにより空、になっていた藩の金蔵に多くの金が蓄えられたと言われる。ただし、財政が再建されて潤った後、茶人としての才能に優れていた治郷は、1500両もする天下の名器「油屋肩衝」をはじめ、300両から2000両もする茶器を多く購入するなど散財した。このため、藩の財政は再び一気に悪化した(改革自体は茂保主導による箇所が大きく、治郷自身は政治に口出ししなかったことが原因とされる)。文化3年3月11日(1806年4月29日)、家督を長男の斉恒に譲って隠居し、文政元年4月24日(1818年5月28日)に死去した。享年68。弟の衍親(のぶちか)は、俳諧などをよくする趣味人の松平雪川として知られる。
 政治家としての治郷の評価は低いが、一説には財政を再建して裕福になったのを幕府から警戒されることを恐れて、あえて道楽者を演じていたという説もある(越前松平家系統は親藩の雄として尊重されると共に、過去の経緯から幕府からは常に警戒されていた)。茶人としての才能は一流であり、石州流を学んだ後に自ら不昧流を建てた。さらには「古今名物類従」や「瀬戸陶器濫觴」など、多くの茶器に関する著書を残している。ちなみに治郷によって築かれた茶室は菅田菴(寛政2年(1790年)築、国の重要文化財)や塩見縄手の明々庵(安永8年(1779年)築)に現存する。この他に茶の湯につきものの和菓子についても、治郷が茶人として活躍するに伴い、松江城下では銘品と呼ばれるようになるものが数多く生まれた。このため、松江地方では煎茶道が発達して、今でも湯のみがお猪口状の湯呑で飲む風習が残っている。武芸にも堪能で、松江藩の御流儀である不伝流居相(居合)を極め、不伝流に新たな工夫を加えた。また、強豪力士雷電為右衛門を士分に取り立てたことでも知られる。金魚を愛し、部屋の天井に硝子を張って肱枕で金魚を眺めた、金魚の色変わりについて藩士を他国に派遣してその秘法を会得させた、などとも伝えられる。また、松江藩で開発され、さかんな金魚出雲なんきんがこの金魚と思われるが、現在島根県の天然記念物に指定されている。
・チェックテスト
 1  茶人大名である松平治郷はどこの藩主。・・・松江藩
 2  前藩主は39歳で隠居しました 誰ですか。・・・松平宗衍(むねのぶ) 
 3  17歳で藩主となった治郷を補佐し、財政再建など藩政の改革を行なったのは誰ですか・・・朝日茂保
 4  治郷の茶の流派は。・・・不昧流
 5  治郷の妹は福知山藩の誰に嫁ぎましたか。古銭研究 泰西輿地図説を完成させたことで知られています。・・・朽木昌綱
 6  治郷が馴染みにしていた洲崎の料理茶屋はどこすか。寛政3年の高潮で流されてしまいました。・・・升屋
越前松平家は・・・
 家祖の秀康は、長兄信康自刃ののちは家康の庶長子であったが、はじめ豊臣秀吉の養子となって徳川家を離れ、のちに下総結城氏を継いだこともあって、徳川家の家督および将軍職の後継者に選ばれなかった。関ヶ原の戦いののち越前国北ノ庄(福井)に67万石、またそれまでどおり下総国結城郡も与えられた。これにより秀康の石高は75万石となった。晩年、名乗りを結城から「松平」に戻し(史実として立証されている保科正之と同視された上で、秀康は最期まで結城姓のままであったという説もあり、また「徳川」を名乗ったとする説もある)、これにより越前松平家が成立する。「家康は秀康が重篤と知るや、100万石の朱印状を出したが、秀康死去となり幻のものになった」という俗談も残っている。
 越前藩は長男の忠直が継いだが、将軍家に反抗的であるなどの理由で、叔父で岳父でもある第2代将軍秀忠によって、元和9年(1623年)に豊後国に配流された。秀康以来の重臣本多富正や、多賀谷村広・土屋昌春・矢野宗喜・雪吹重英らをはじめとする家臣団は、幕命で弟の忠昌が越後国高田から移動した際に継承した。ただし忠直の附家老であった丸岡本多家の本多成重は独立した大名となり将軍家に直属し、弟の直正・直基・直良への分封および越前敦賀郡の没収により、忠昌が入った福井藩は忠直時代から大幅に縮小し50万石となった。以後25万石への減封などを重ねながら幕末へと至る(廃藩時は32万石)。ただし田安家から養子を迎えたため忠昌の血筋は途中で断絶している。
 一方、忠直の嫡男光長に対しては、忠昌が支配していた越後高田の地に25万石(26万石とも)が与えられた。しかし越後騒動が勃発すると改易となり、光長は配流処分となった。数年後、光長家の継嗣として、支流の直基流松平家より養子として宣富(直基の孫)が迎えられ、宣富に対して美作国津山に10万石が与えられた。以後、将軍家から養子を迎えるなどしつつ、紆余曲折を経ながらも幕末まで続いた。

嘉永元年(1848)11月6日、戯作者滝沢馬琴が亡くなりました。82歳。江戸深川生まれ。24歳で戯作で身を立てることを決意し、山東京伝に師事。代表作に『椿説弓張月』『近世説美少年録』。全106冊の『南総里見八犬伝』。執筆中に失明、口述筆記しながら28年かけて完成させました。
・『椿説弓張月』(ちんせつ ゆみはりづき)は、曲亭馬琴作・葛飾北斎画の読本。文化4年(1807年)から同8年(1811年)にかけて刊行。全5篇。『保元物語』に登場する強弓の武将鎮西八郎為朝(ちんぜい はちろう ためとも)と琉球王朝開闢の秘史を描く、勧善懲悪の伝奇物語であり、『南総里見八犬伝』とならぶ馬琴の代表作である。
・近世説美少年録(きんせせつびしょうねんろく)は、曲亭馬琴の晩年の読本。続編は『新局玉石童子訓』で、一般には両者あわせてこの題名で読まれている。文政12年(1829年)から刊行開始、『南総里見八犬伝』と並行して書かれた。天保3年(1832)まで刊行して中断、弘化2年(1845年)から『新局玉石童子訓』として続編を刊行、嘉永元年(1848年)まで刊行されたが馬琴の死により中絶した。版元ははじめ千翁軒、ほどなく文渓堂に代わる。
 馬琴はかねてから、毛利元就陶晴賢の戦いを、元就を善玉、晴賢を悪玉として描くことに関心があり、『稚枝鳩』でもこの二人の戦いが背景になっていた。ここでは元就を大江杜四郎、晴賢を末朱之介として、前者を美少年、後者を悪少年として、架空の前半生を伝奇的にこしらえている。最終的には元就、晴賢の戦いになるはずだったが、そこまで行き着かずに終っている。いずれも青年が諸国を流浪する趣向で、朱之助は悪事を重ねていくが、朱之介は、「お夏清十郎」をもじった阿夏と瀬十郎の子ということになっており、近松門左衛門井原西鶴などでは美化されるカップルを淫奔者として描いているところに、馬琴の特色がみられる。
・『南総里見八犬伝』(なんそうさとみはっけんでん、旧字体: 南總里見八犬傳)は、江戸時代後期に曲亭馬琴滝沢馬琴)によって著わされた大長編読本。里見八犬伝、あるいは単に八犬伝とも呼ばれる。文化11年(1814年)に刊行が開始され、28年をかけて天保13年(1842年)に完結した、全98巻、106冊の大作である。上田秋成の『雨月物語』などと並んで江戸時代の戯作文芸の代表作であり、日本の長編伝奇小説の古典の一つである。
 『南総里見八犬伝』は、室町時代後期を舞台に、安房国里見家の姫・伏姫と神犬八房の因縁によって結ばれた八人の若者(八犬士)を主人公とする長編伝奇小説である。共通して「犬」の字を含む名字を持つ八犬士は、それぞれに仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字のある数珠の玉(仁義八行の玉)を持ち、牡丹の形の痣を身体のどこかに持っている。関八州の各地で生まれた彼らは、それぞれに辛酸を嘗めながら、因縁に導かれて互いを知り、里見家の下に結集する。馬琴はこの物語の完成に、48歳から75歳に至るまでの後半生を費やした。その途中失明という困難に遭遇しながらも、息子宗伯の妻であるお路の口述筆記により最終話まで完成させることができた。『八犬伝』の当時の年間平均発行部数は500部ほどであったが、貸本により実際にはより多くの人々に読まれており、馬琴自身「吾を知る者はそれただ八犬伝か、吾を知らざる者もそれただ八犬伝か」と述べる人気作品であった。