縁切り寺。後水尾天皇。

<今日の江戸学>
◆縁切り寺
1. 東慶寺(縁切り寺)に関する川柳
・(A出雲)にて結び (B鎌倉)にてほどき
・(B鎌倉)の道など聞いて嫁おどし
・その女 昨日越したと渡し守
・うろたえた女 五山をあっちこち (「五山」とは、中国の制度にならったもので、禅宗寺院の格式を表したもの。鎌倉時代に北条氏によって導入さ れた。尼寺の格式を表すため制定された。現存するのは第二位の東慶寺のみで、あとは廃寺となった。)
円覚寺前にて嫁をつかまえる (円覚寺東慶寺の隣接)
・くやしくば尋ねきてみよ松ヶ岡 (土地の古老は東慶寺とよばずに「松ヶ岡」というし、『鎌倉志』のような昔の本や、名所図絵でも「松ヶ岡」とか「松岡御所」または「鎌倉比丘尼所」とか記されている)
2. 上州の縁切り寺は・・・満徳寺群馬県太田市
3. 東慶寺に関係する女性は・・・ 天秀尼(豊臣秀頼の娘)
4. 両寺に関係する徳川の女性は・・・千姫徳川家康の孫、秀忠の娘千姫
満徳寺
 江戸時代、時宗の尼寺であった徳川満徳寺は、鎌倉の東慶寺と並んで縁切寺として著名でした。男女差別が厳しかった当時にあって、不法な夫(男性)から妻(女性)を救済するという縁切りの特権が認められた、いわゆるアジール(避難所)は世界に二つしか存在しませんでした。満徳寺東慶寺の2つの縁切寺がそれです。 
 わずかに寺の言い伝えに過ぎない「由緒書(寺法申立書)」よれば、鎌倉時代、徳川義季(とくがわよしすえ)が開基となって満徳寺を建立し、最初の住職(開山)には、出家した義季の娘がなり、浄念尼(じょうねんに)と称しました。二世は義季の孫の浄院尼(じょういんに)で、浄院尼の名は長楽寺文書にも見られ、その後も代々新田氏ゆかりの人たちが住職になり、三世念空比丘尼(ねんくうびくに)、四世慈円比丘尼(じえんびくに)と伝えられています。しかし、その後約200年間の寺史は空白となっています。おそらく新田氏の没落とともに満徳寺も衰退したに違いありません。16世紀初めに時宗一遍上人のひらいた遊行宗のこと)の尼寺(道場)であったことが、満徳寺についての最も古い確実な記録です。
 縁切寺とは、江戸時代に離婚を求めて駆け込んだ妻を救済して、夫との離婚を達成させてくれた尼寺のことで、「駆け込み寺」とも「駆け入り寺」ともいいます。縁切寺は寺院のもつアジール性の名残と考えられ、男子禁制の尼寺には、一般的に縁切寺的機能があったと思われます。しかし、江戸時代中期以降、幕府から公認された縁切寺は、ここ上州(群馬県)の満徳寺と相州(神奈川県)鎌倉の東慶寺の二つだけでした。そのことは宝暦8年(1758)に上州勢多郡東大室村(前橋市)彦八の女房「ふみ」(実家は佐位郡市場村−赤堀村−)が満徳寺へ駆け込んできた事件に関連する史料に残っています。それによれば、幕府公認の縁切寺東慶寺満徳寺に限ること、たとえ満徳寺の寺法を拒否しても、評定所一座(現在の最高裁判所大法廷にあたる)で、寺法通りに離婚が仰せ付けられるので、離縁状の提出を断ることはできないと、寺社奉行は命じています。
 世界に二つの東慶寺満徳寺が、江戸時代を通じて縁切寺として存在しえたのは、徳川家康の孫娘千姫(せんひめ)にかかわる由緒によります。東慶寺は、千姫が助命をかなえた豊臣秀頼の娘天秀尼(てんしゅうに)(二十代住職)の入寺にあたって、家康から縁切寺の制度を特別に許可されました。
 満徳寺は、千姫自身が入寺し、離婚後再婚した例にならって、両寺とも古くからの縁切寺法の特権が再確認されたと伝えられています。ところで、千姫本人は入寺せず、身代わりに俊澄上人(しゅんちょうしょうにん)が住職として入寺したといわれます。俊澄上人は満徳寺中興開山と称されましたが、その出自にはいろいろな説がみられ、定かではありません。満徳寺の住職は弟子譲り、つまり先の住職が後の住職を選任しました。三代まで大奥から住職が選任されているので、俊澄上人も大奥にいた人物と考えられます。なお、千姫入寺の由緒は、真偽のほどは別として、満徳寺の寺格に盤石の重みを与え、縁切寺法の存続・擁護に強力な背景となりました。
 鎌倉時代に新田荘の徳川郷を領地とした新田義季(新田義重の子)は、所領にちなんで徳川(得川)四郎と名乗りました。徳川家康はこれを先祖とするという由緒が江戸時代の満徳寺の地位を決定しました。家康は徳川郷を徳川氏の先祖新田氏の故地、つまり徳川氏発祥の地であるとして、天正19年(1591)11月、450石の御朱印地(ごしゅいんち)として年貢課役(ねんぐかやく)を免除し、特別に庇護しました(そのうち100石が満徳寺御朱印地とされた)。徳川村といわず中世的な「郷」と称したのもその現れと考えられます。徳川郷の百姓は脇差(わきざし)をさし、大名行列にも土下座(どげざ)しなかったといわれています。徳川郷を支配したのは正田隼人(しょうだはやと)家で、土地では「頭役」と呼ばれ、将軍の代替わりに際しては、満徳寺住職と並んで拝謁の栄によくすなど特別な地位にありました。享和2年(1803)の徳川郷明細帳によれば家数は72軒、人口は285人でした。
 満徳寺は、徳川氏発祥の地にあり、徳川氏の先祖が建立した寺であり、千姫満徳寺に入寺したことにより、さらにこの由緒が強調され、寺格を高めることとなりました。(縁切寺満徳寺 http://www8.wind.ne.jp/mantokuji/mantokuji/mantokuji.htmlより)

寛永6年(1629)11月8日、後水尾天皇が、第二皇女である興子(おきこ)内親王に譲位し、明正天皇が即位しました。表向きは健康上の理由でしたが、前々年の紫衣事件徳川幕府との関係がうまくいっていなかったこともあり、また10月に将軍の乳母お福(春日局)の参内で天皇と朝廷の権威が著しく損なわれたことへの抵抗とみられています。女子しかいない状態で、幕府の了解が得られなかったのですが、独断で宣言。その後も後水尾天皇法皇として院政をしき、実権をにぎりました。
後水尾天皇とは江戸時代初期の天皇、江戸時代前期の治天の君。父は後陽成天皇。父親ではなく徳川家康の意思により立てられたため、父親から冷たく当たられるようになってしまった。父上皇崩御後、近代まで悪帝として知られていた陽成天皇加後号を贈ったのは子・後水尾天皇ではないかと考えられる。 応仁の乱以降の朝廷は貧窮の極みであったが、後水尾天皇が物心ついた頃には徳川家康の天下統一が完成しかけており、坊ちゃん育ちであったと思われる。禁中並公家諸法度』など天皇を抑えようと朝廷に深く介入する徳川幕府のやり方に徐々に不満を募らせ、紫衣事件の起きた年に爆発し、ついに明正天皇に譲位してしまう。『禁中並公家諸法度』は院政を認めていなかったため、時の将軍・徳川秀忠院政を行わせまいとする。しかし秀忠の娘・東福門院に諭されてしまい、後水尾上皇院政を始める。以降霊元天皇の代まで治天の君として君臨する。