小山評定、塙保己一そして大黒屋 光太夫。

<今日の江戸学>
小山市役所前にある「小山評定跡由来」の碑。慶長5年(1600)、徳川家康会津上杉景勝を討伐すべく黒田長政山内一豊細川忠興福島正則ら諸将を率いて北上。ここ小山で石田三成挙兵の報に接し、西軍と対決すべく反転することを決めた軍議が「小山評定」で、歴史は天下分け目の関ヶ原へ。
小山評定とは
 慶長5年7月24日(1600年9月1日)、関ヶ原合戦の直前、下野国小山(現在の栃木県小山市)で開かれた軍議。徳川家康の留守中、西で挙兵した石田三成に対し、本来は家康を豊臣家の名代として、上杉景勝を討伐する予定だった諸大名連合軍が、この地での軍議で軍を西に返し、石田らの軍と対決することを決定。このとき、「豊臣家の命令による連合軍」が「家康を頭目にした私軍」となり、また「こちらに味方するも石田に味方するも自由だ」といわれた諸大名が、あらためて家康に忠誠を誓うことになった。このときの福島正則山内一豊黒田長政など有名な諸大名間の根回し、はったり、逡巡、抜け駆けなどが、あったとドラマなどで描かれている。この時の小山評定に参加した上杉討伐軍諸大名の中で、石田三成方に参加のため帰国したのは、美濃岩村城主<4万石>・田丸具安(忠昌)のみで、他の全大名は反石田三成方の徳川家康方への加入を表明した。真田昌幸真田信繁真田幸村)親子は遠征途中の犬伏で離脱しており、代わりに昌幸の嫡男で上野沼田城主の真田信幸が参陣。

◆寛政5年(1793)11月9日、塙保己一はなわ・ほきいち)が江戸・麹町六番町に和学講談所を開きました。幕府の援助を受け、出版を中心に、図書・史料の研究調査活動、後進の指導を行なうことを目的として開設。塙は5歳のときに失明。日本各地の未完の古典籍を収集、出版する計画を立て、666冊の叢書『群書類従』を文政2年(1819)に出版、『武家名目抄』や『史料』の編纂を手がけました。和学講談研究所の事業はのち明治政府に受け継がれ、『大日本史料』『大日本古文書』編纂事業となり、現在の東京大学史料編纂所に受け継がれている。
・塙 保己一(はなわ ほきいち、延享3年5月5日(1746年6月23日) - 文政4年9月12日(1821年10月7日))は、江戸時代の国学者。幼名は丙寅にちなみ寅之助(とらのすけ)、失明後に辰之助(たつのすけ)と改める。また、一時期、多聞房(たもんぼう)とも名乗る。雨富検校に入門してからは、千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち)、保己一(ほきいち)と改名した。『群書類従』『続群書類従』の編纂者である。
・和学講談所とは塙保己一の創立した学問所。寛政5 (1793) 年江戸幕府の許可と下付金を受けて江戸麹町に設立,のち表六番町に移した。林大学頭の支配を受け,国史律令の講習および史料の編纂をおもな事業とし,屋代弘賢らを中心に『群書類従』『続群書類従』『武家名目抄』などを編纂した。

◆東京両国の回向院には、海難事故の慰霊碑も多数ある。寛政元年(1789)に奉納された千石船を象ったこの石碑には、帆裏の右側に「光太夫」の名が。海難から10年、ロシア女帝エカテリーナ2世に拝謁し、ラクスマンに伴われて帰国した大黒屋光太夫は、この時点では死んだものと見做されていた。
・回向院とは東京都墨田区両国二丁目にある寺。山号は諸宗山。正称は諸宗山(一時期、国豊山と称す)無縁寺回向院。墨田区本所地域内に所在していることから「本所回向院」とも呼ばれている。振袖火事(ふりそでかじ)と呼ばれる明暦の大火(1657年(明暦3年))の焼死者10万8千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まり。のちに安政地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬する。
 あらゆる宗派だけでなく人、動物すべての生あるものを供養するという理念から、軍用犬・軍馬慰霊碑や「猫塚」「唐犬八之塚」「オットセイ供養塔」「犬猫供養塔」「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」(三味線の革の供養)など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑、ペットの墓も多数ある。江戸三十三箇所観音参りの第4番札所であり[1]、この馬頭観世音菩薩徳川家綱の愛馬を供養したことに由来している。1793年(寛政5年)、老中・松平定信の命によって造立された「水子塚」は、水子供養の発祥とされている。著名人の墓として、山東京伝竹本義太夫鼠小僧次郎吉など。 参拝客のために両国橋が架けられた。
 1781年(天明元年)以降には、境内で勧進相撲が興行された。これが今日の大相撲の起源となり、1909年(明治42年)旧両国国技館が建てられるに至った。国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」と呼ぶこともある。1936年(昭和11年)1月には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立した。
・大黒屋 光太夫(だいこくや こうだゆう、宝暦元年(1751年) - 文政11年4月15日(1828年5月28日))は、江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時はロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂着。ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に謁見して帰国を願い出、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国した。幕府の老中・松平定信は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだが失脚する。その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として桂川甫周大槻玄沢蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与した。甫周による聞き取り『北槎聞略』が資料として残された。

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<今日のニュース>
アメリカ大統領選。
 トランプが勝利を飾った。政治経験のない初めての大統領が誕生することになる。 勝利宣言時の言葉「大統領戦は終わったが、今から大統領としての仕事が始まる。」
◆大荒れ ”初の冬将軍”が猛威 真っ白 35年ぶり大雪。
 北海道函館市では11月上旬までに14cmの積雪を観測し、35年ぶりのこととなった。函館ではあちこちで雪かき作業に追われる人の姿が見られた。北海道では朱鞠内で60cm以上の積雪を観測するなど、この時期としては多い雪が降った。冬型の気圧配置が強まり、大荒れの天気となった北日本宗谷岬で最大瞬間風速31.5mを観測するなど、各地で冷たい風が吹き荒れた。東北では盛岡・秋田・山形で去年より2週間以上早い初雪を観測した。長野県でも初雪を観測し、初雪にしてはやや激しい振り方に地元の人も驚いていた。去年は雪不足に悩まされたスキー場ではこのまま振り続けてくれればという期待を寄せる。未明から北寄りの風が強まった関東地方。東京では木枯らし1号が吹き、去年と比べて18日より遅かったといい、最低気温は平年並みだったものの最大瞬間風速は16.1mを観測し体感温度は低くなった。北日本では明日まで大荒れの天気となり、関東など広い範囲であす朝は今日より冷え込む見込みとなっている。

<今日の小池劇場>
◆小池知事が河村市長と会談 政治的連携は引き続き協議。
 東京都の小池知事はきょう名古屋市の河村市長と会談し、待機児童対策などについて共通課題に連携し取り組む方針を確認した。また、河村市長は小池知事の政治塾であいさつをする予定だということである。