徳川家康。シーボルト事件。

<今日の江戸学>
徳川家康(安国院・松平広忠の長男)
 家康は群雄割拠の戦国時代、深慮遠望を持って事に当たり、天下統一を成し遂げた。家康は将軍職を徳川家累代の世襲とし、広く世に知らしめる為に短期で2代秀忠に将軍職を譲る。さらに3代目将軍に家臣団はおろか父秀忠まで加わって次男国松が擁立されようになると、自ら江戸城に入って長男家光を世継ぎに据えて、形式や制度を重視する長子世襲制を揺るぎない統治の礎とした。
 徳川家康織田信長と同盟、豊臣秀吉に臣従した後、応仁の乱から123 年続いた戦乱に終止符を打った。「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座って喰らうは徳川家康」と狂歌で揶揄されている。しかし、家康が織豊政権と全く異なる政権基盤を築いた。江戸幕府は、全国の直轄幕領地や旗本知行地などで総石高の3割に相当する700万石を独占管理していた。さらに貨幣経済の根幹も抑え、他の大名の追随を許さない圧倒的な権力基盤を築いた。これを背景に武家諸法度禁中並公家諸法度、社寺法度によって、全国諸大名、寺社、朝廷、皇室までも新秩序における関係を明確に規定することで取締まり支配した。このように徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の支配体制は極めて完成度の高いものであった。天正16年(1590)8月1日に家康が江戸城に入府以来、慶応4年(1868)4月7日十五代将軍慶喜江戸幕府が瓦解するまでの278年間もの長きに渡って徳川将軍家が継続支配したのである。
 徳川家の祖とする新田家の家紋は一つ引両であったが、家康の生家である三河の豪族松平家は縁で二葉葵を使用していた。葵紋は本来、京都鴨賀茂神社に由来する鴨氏の家紋であった。賀茂の神官の血を引く家康家中の本多氏も三つ葉立葵を家紋としていた。ある戦で出陣の縁起物を三つ葉葵の敷物の上に並べ、見事戦に勝利した縁起を担いで三つ葉葵を家紋に定めたと伝わる。この葵紋は、家康が征夷大将軍となってから権威ある紋として一般の使用を禁止し、将軍家と御三家のみで独占使用とした。だが賀茂氏と縁のある三河国親藩の一部には継続して葵紋の使用を許した。これまで信長や秀吉に天皇が桐紋を下賜したように徳川家に与えようとしたが、家康が断ったことでさらに葵紋の価値が上がった。徳川家では葵紋の格式を表すため、各家固有のの葵紋様を定めた。
・松平竹千代→松平元信→松平元康→徳川家康
 家康は天文11年(1542)岡崎城松平広忠尾張刈谷城主水野忠政の娘(於大の方)の間に生まれた。3歳のときに忠政が織田方についたため、今川方の広忠は妻と離縁した。母親から引き離された幼い家康(竹千代)は、8歳で父弘忠は暗殺された。天文18年(1549)人質として駿府へ送られる。駿府では今川義元に奉仕し、元服に際し、主君の一字を与えられて松平元信(通称次郎三郎)を名乗り、今川一族から妻瀬名(築山殿)を迎え、元康と名を改めた。家康は築山殿との間に長男信康と長女亀姫をもうけた。永禄3年(1560)桶狭間の戦い今川義元織田信長に討たれ混乱に乗じて今川氏から独立し岡崎へ帰還した。永禄4年(1561)には信長と和睦(清州同盟)して勢力拡大を謀るが、それは今川家との絶縁を意味していた。信長に配慮せざるを得ない家康は築山殿との別居に追い込まれた。
 永禄6年(1563)年に義元の一字を捨て元康から家康に改名する。同年に一向宗を中心とした一揆が勃発すると、半年かけて鎮圧した一向宗を禁止する。永禄8年(1565)年には今川勢を東三河から駆逐する。さらに遠江に侵攻して、元亀元年(1570)には浜松城を築き本拠とする。しかし、元亀3年(1572)南進する武田軍と戦い大敗する。そのときにあまりにも悔しかったため、生涯の自省をこめて自分自身の苦々しい表情の絵を描かせている。
 さらに家康は同盟者織田信長との関係に翻弄されることになる。家康の長男信康に信長の娘徳姫を正室に迎えていた。信長は娘の徳姫から夫信康の母築山殿が武田家に内通しているという手紙を受け取った。家康は武田信玄の後継者・勝頼とは依然として敵対関係にあり、内通は裏切り行為に他ならず、家康は苦渋の決断を迫られた。天正7年(1579)、徳川家の分裂を防ぐため、家臣に築山殿の殺害を、信康には切腹を命じた。妻と長男を犠牲にすることで家康は徳川家の安泰を謀ったのである。
 天正3年(1575)5月1日、甲斐の武田勝頼は1万5千の軍勢を率いて長篠城を包囲した。長篠城主・奥平定昌のわずか5百の兵が籠城したが落城寸前となる。そこで配下の者が決死的な脱出で、岡崎城の家康、信長の援軍を得た。戦いは5月21日設楽原で連吾川を挟み、織田・紱川軍3万8千と3千挺の鉄砲隊と馬防柵の前に武田の騎馬隊が壮絶な戦闘を繰り返し惨敗した。
 天正10年(1582)本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、甲斐、信濃を平定した。天正12年(1584)織田信雄を奉じて秀吉と対決して小牧・長久手の戦いに勝利する。しかし、信雄が人質として、秀康を差出したため収拾し秀吉は権大納言に任命される。北条氏滅亡後、天正18年(1590)8月関東移封で江戸城に入府する。豊臣政権下の五大老筆頭となる。秀吉の死後の慶長5年(1600)関が原の戦いで西軍に勝利する。慶長8年(1603)家康は征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開いた。慶長10年(1605)家康は将軍職を秀忠に譲ると隠居先の駿府城江戸城との二元政治を行い大御所として君臨した。
徳川家康家系図
慶長19年(1614)大坂の冬の陣、慶長20年[1615)大坂夏の陣豊臣氏の滅亡を見届けた家康は、元和2年(1616)1月に病に倒れ、3月には太政大臣を任命され、4月17日に亡くなる。父:松平広忠 母:伝通院(於大の方) 正室:築山殿 継室:旭姫 側室:西郷局・小督局・阿茶局・蔭山殿 子供:11男5女 在位:2年2ヶ月(1603〜05)、享年75歳 墓所日光東照宮
徳川家康クイズ
 文章に間違いはどこですか。
1. 家康の死去の原因になったと言われることの多い鯛の天ぷらを食した場所は駿府城である。 駿府城 → 田中城 
2. 「探幽のごときは あたかも家康のごとき人なり」この様に述べたのは狩野芳崖である。 狩野芳崖岡倉天心
3. 子どもたちに 騎馬と剣術の習い事をさせた。 剣術 → 水泳 
4. 将軍になると街道整備のため伝馬制を始めた  将軍になると → 関ヶ原の戦い直後
5. 伏見版(活版印刷)は銅活字で金地院崇伝や林羅山が関わった   伏見版 → 駿河
6. 豊臣秀頼は二条城で家康に謁見した。 この文は正しい 
・家康の子ども
                  生母 
 1   信康    1559〜1579   (築山殿)
 2   秀康    1574〜1607   お万の方(小督局)   
 3   秀忠    1579〜1632   お愛の方(西郷局) 
 4   忠吉            お愛の方(西郷局) 
 5   信吉            お都摩(下山殿) 
 6   忠輝            お茶阿の方 
 7   松千代           お茶阿の方 
 8   仙千代           お亀の方 
 9  (義直) 尾張 1600〜1650   お亀の方 
 10  (頼宣) 紀伊 1602〜1671   お万の方 
 11  (頼房) 水戸 1603〜1661   お万の方 
 
 1.御三家の成立順は。 尾張 → 水戸 → 紀伊
2. 五郎八姫(いろはひめ 伊達政宗女)と結婚したのは誰・・・忠輝

◆文政11年(1828)11月10日、オランダ商館付医官シーボルトの吟味が始まりました。シーボルトは国禁の品を持ち出そうとしたのが発覚し、8月に逮捕。この日、幕府の検使が長崎の出島に出向き、シーボルトから日本地図などを没収、日本国外への出立を禁じました。のち商館長の前で23か条の尋問書が手渡され、答弁書を提出。シーボルトは友人らの名前を述べることを可能な限り避け、ほかに及ぼすことがないようにつとめていた。
シーボルト事件
 文政11年(1828年)9月、オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した(その後死罪判決を受け、景保の子供らも遠島となった)。シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた。当時、この事件は間宮林蔵の密告によるものと信じられた。樺太東岸の資料を求めていた景保にシーボルトクルーゼンシュテルンの『世界周航記』などを贈り、その代わりに、景保が伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図をシーボルトに贈った。この縮図をシーボルトが国外に持ち出そうとした。シーボルトは、江戸で幕府天文方高橋景保のもとに保管されていた伊能図を見せられた。地図は禁制品扱いであったが、高橋は学者らしい単純さでシーボルトのために写しを同意した。後のシーボルト事件はこの禁制の地図の写しを持ち出したことにあった。シーボルトらが1826年7月に江戸参府から出島に帰還し、この旅行で1000点以上の日本名・漢字名植物標本を蒐集できたが、日本の北方の植物にも興味をもち、間宮林蔵蝦夷地で採取した押し葉標本を手に入れたく、間宮宛に丁重な手紙と布地を送ったが、間宮は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え、開封せずに上司に提出した。
 高橋景保間宮林蔵のあいだには確執があったといわれる。間宮がシーボルトから受け取った手紙の内容が発端となり、多くの日本人と高橋景保は捕らえられ取調べを受けることになり、日本地図の返還を拒否したためシーボルト自身も処分の決定を待つことになってしまった。江戸で高橋景保が逮捕され、これを受けてシーボルトへ高橋より送った「日本地図其の他、シーボルト所持致し居り候」ため、シーボルトの所持する日本地図を押収する内命が長崎奉行所にもたらされ、出島のシーボルトは訊問と家宅捜索をうけた。軟禁状態のシーボルトは研究と植物の乾燥や動物の剥製つくりをしてすごしたが、今までの収集品が無事オランダやバタヴィアに搬出できるかどうか心配であり、コレクションの中には個人的に蒐集していた標本や絵画も所有しており、これが彼一人の自由には出来なくなっていた。シーボルトは訊問で科学的な目的のためだけに情報を求めたと主張し、捕まった多くの日本人の友人を助けようと彼らに罪を負わせることを拒絶した。自ら日本の民になり、残りの人生を日本に留まることで人質となることさえ申し出た。高橋は1829年3月獄死し、自分の身も危ぶまれたが、シーボルトの陳述は多くの友人と彼を手伝った人々を救ったといわれている。しかし、日本の地図を持ち出すことは禁制だと彼自身知っていたはずであり、日本近海の海底の深度測定など、スパイの疑惑が晴れたわけではないなお、シーボルト安政5年(1858年)の日蘭修好通商条約の締結により追放が解除となり、翌安政6年(1859年)に長男アレクサンダーを伴って再来日し、幕府の外交顧問となっている。