松平 乗邑

<今日の江戸学トピック>
◆松平 乗邑(まつだいら のりさと)は、江戸幕府の老中。肥前唐津藩第3代藩主、志摩鳥羽藩主、伊勢亀山藩主、山城淀藩主、下総佐倉藩初代藩主。大給松平家宗家10代。元禄3年(1690年)、藩主であった父乗春の死により家督を相続する。正徳元年(1711年)には、近江守山において朝鮮通信使の接待を行っている。享保8年(1723年)老中となり、下総佐倉に転封となる。以後足掛け20年余りにわたり徳川吉宗享保の改革を推進し、足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央とともに年貢の増徴や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、幕府成立依頼の諸法令の集成である御触書集成、太閤検地以来の幕府の手による検地の実施などを行った。水野忠之が老中を辞任したあとは老中首座となり、後期の享保の改革をリードし、元文2年(1737年)には勝手掛老中となる。
 当時は吉宗が御側御用取次を取次として老中合議制を骨抜きにして将軍専制の政治を行っていた。『大岡日記』によると元文3年(1738年)に大岡忠相配下の上坂安左衛門代官所による栗の植林を3ヵ年に渡って実施する件について、7月末日に御用御側取次の加納久通より許可が出たため、大岡が8月10日に勝手掛老中の乗邑に出費の決裁を求めたが、乗邑は「聞いていないので書類は受け取れない」と処理を一時断っている。この対応は例外的であり、当時は御側御用取次が実務官僚の奉行などと直接調整を行って政策を決定していたため、この事例は乗邑による、老中軽視の政治に対するささやかな抵抗と見られている。
 主要な譜代大名家の酒井忠恭が老中に就くと、忠恭が老中首座とされ、次席に外れた。将軍後継には吉宗次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしたが、長男の家重が後継となったため、家重から疎んじられるようになり、延享2年(1745年)、家重が9代将軍に就任すると直後に老中を解任され、加増1万石を没収され隠居を命じられる。次男の乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられた。
(参考 萩原裕雄「吉宗時代 松平乗邑失脚事件--享保の改革の功労者に突如下された非情な結末 (特集 江戸城の400年) -- 「江戸城400年事件史」『歴史読本:第48巻8号(通号765号)』新人物往来社