馬喰町公事宿、宿屋飯盛、そして三笑亭可楽(初代)

<今日の江戸学トピック>
1. 公事宿(旅人宿)が多かったのはどこですが。・・・馬喰町、小伝馬町
  公事宿(くじやど)は、公事訴訟や裁判のために地方から来た者を宿泊させた江戸時代の宿屋。公事人宿・出入宿・郷宿・御用宿とも呼ばれた。「公事宿」という名称は主に江戸の宿屋に用いられ、地方の城下町や代官所の陣屋近くにあった宿屋は「郷宿」(ごうやど)と呼ばれることが多かった。両者を総称して「御用宿」(ごようやど)ともいう。また、江戸の公事宿は旅人宿と百姓宿に分けられるが、両者をまとめて江戸宿と呼ぶこともあった。大坂では、大坂町奉行所の御用を勤めた御用宿を用達(ようたし)と呼んだ。
 江戸の公事宿は、馬喰町小伝馬町旅人宿、八拾弐軒百姓宿、三拾軒百姓宿(三拾組百姓宿)、それに十三軒組があり、それぞれ仲間組織を形成し、独占営業権を与えられていた。旅人宿は町奉行所と、八拾弐軒組は公事方勘定奉行所、三拾軒組は馬喰町御用屋敷とそれぞれ密接な関係にあり、百姓宿はそれぞれの役所の近辺に建てられていることが多かった。三拾軒組は関東郡代との結びつきも強く、また八拾弐軒組は評定所勘定奉行所の出火駆付御用も務めた。三組の仲間組織は、それぞれが役目・権益にまつわる由緒をもち、またそれぞれ得意客のいる縄張りも抱えていた。
 喜多川守貞の著した『守貞漫稿』によれば、江戸の公事宿では1泊2食付きだが部屋での食事はできず、宿泊客は朝夕の決まった時間に台所(食堂)で食事をとり、またほとんどの宿には風呂がないため近くの銭湯へ出かけることになったとある。京都や大坂の公事宿に比べて外見もサービスも劣り、宿賃は公定248文だが、余分の宿賃を払うのでよりよいサービスを、と求めても応じなかったという。
 
2. 旅人宿は一般の人も利用できました。では訴訟関係者のみが 宿泊できる宿は何と言いますか。・・・百姓宿
 百姓宿とは、江戸時代の公事人を止宿させ、訴訟当事者のため斡旋することを業とした宿。  

3. 公事宿では長逗留になることがしばしば、「( )の味も忘れた長い公事」こんな川柳も どんな味を忘れてしまったのでしょうか。・・・麦めし 

4. 公事宿の主人石川雅望は国学者としても著名。狂歌でも活躍。では狂歌師名は。・・・宿屋飯盛
  家業の宿屋を江戸小伝馬町で営むかたわら、狂歌の先達大田南畝(四方赤良、よものあから)のもとで狂歌を学ぶ。天明年間初期(1781年 - 1789年)、狂歌四天王の一人として版元である蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)から多くの狂歌絵本を出版。絵は北尾政演(きたおまさのぶ)。寛政3年(1791年)宿屋の営業許可をめぐり贈収賄の嫌疑をうけ、江戸払い[3]となる。この間、国学研究に打ち込み、雅語用例集『雅言集覧』や『源氏物語』の注釈書『源註余滴』などを書く。文化5年ごろから狂歌師として復活。雅望のグループを伯楽連[要出典][4]と称し、天明狂歌界を席巻する一方、俳諧歌を主張した鹿津部真顔(しかつべのまがお)と対立。狂歌の軽妙さと諧謔性を重んじ、文化文政時代の狂歌壇を二分する勢力となった。国学者としても知られる。著書は他に、撰集『万代狂歌集』、和文集『都の手ぶり』、読本『飛騨匠物語』、『近江県(おおみあがた)物語』などがある。このうち、『都の手ぶり』は、江戸の両国橋や、馬喰町の様子などを、ほぼ、ひらがな文で記述した随筆である。人気作『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』で知られる柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の師。

5. 櫛職人京屋又五郎は馬喰町生まれ、のちに落語家になります。誰でしょうか。・・・三笑亭可楽(初代)
最も古い職業落語家(噺家)の一人とされる。生まれは馬喰町で、櫛職人から噺家になった人物。寛政10年(1798年)7月に、山生亭花楽と名乗って3人の天狗連(アマチュア)の噺家と共に江戸の下谷稲荷神社で寄席を開いた。同年同月、岡本万作によってもう一軒の寄席が開かれており、この2軒が日本最初の寄席と考えられている。一度は職人に戻ったが、諦めきれずに同年9月には越ヶ谷で興行を起こし、これが成功する。10月には三笑亭可楽に改名した。その後は本所東両国に定席を確保し、何度か咄の会を開いて三題咄や謎解きを行って客との交流を深めると同時に、線香が一分(約3ミリ)灰になるまでの短い間に落し咄を即席で考える「一分線香即席咄」を披露していた。
弟子(門下)は「可楽十哲」と呼ばれそれぞれ人情噺の祖・初代朝寝房夢羅久、音曲噺の祖・初代船遊亭扇橋、両国の席の元祖・初代喜久亭寿楽、初代萬笑亭亀楽、初代三笑亭佐楽、初代東亭鬼丸、自笑亭里楽、初代宇治新口(立川談志)、初代三笑亭古楽、怪談噺の祖・初代林屋正蔵、百面相の一種・百眼の初代三笑亭可重(のちの2代目可上)、百眼の祖・初代三笑亭可上、三笑亭世楽(のちの吐月峯山彦)、写し絵の祖・初代うつしゑ都楽、2代目可楽、つるや萬助(のちの2代目立川銀馬)、八人芸の初代川島歌遊、よたん坊ゆ又、都々逸の初代瀧亭鯉丈(戯作者の為永春水の兄とも)、初代菅良助(のちの乾坤坊良斎)、2代目菅良助など門弟数十人が確認されており、現在に繋がる一流の諸派の祖を輩出している。

6. 三遊亭円生(初代)は馬喰町に住んだことがありました。円生が得意としたのは・・・芝居噺
江戸神田の生まれ、元は芝居の木戸芸者。最初は東亭八子門下で多子、のちに初代三笑亭可楽門下で東生亭世楽となったとされる。1797年4月に初代東亭鬼丸の門下で山遊亭猿松、初代烏亭焉馬(立川焉馬)の門下で立川焉笑を経て、三遊亭圓生と名乗った。 多くの同業者から尊敬され浅草堂前に住んでいたために「堂前の師匠」「堂前のおじさん」などと呼ばれた。鳴り物入りの芝居の台詞回しや声色を得意とした。