12月4日、幕府天文方高橋景保が世界地図の作成に。

◆とうとう通算1790日・1790日継続中になった。あと10日すぐに通算1800日・1800日継続中を迎える。そろそろ連続記録は年内で終わりにすることになろう。残念であるが、、、。已む得まい。仕事は別として、私の目標はまず第一に江戸検1級合格である。仕事外の時間は、江戸検の勉強に割きたい。

◆9時過ぎに老健施設で母親と面会。11時過ぎに自治会の餅つき大会に参加。環境が変わったことに伴い、老化が進んだ感が否めない。これからリハビリがうまくいくのか心配。車椅子生活になる可能性が大かも。今後も介護に不安を覚える。

<今日の江戸学チェック>
◆文化4年(1807)12月4日、幕府天文方高橋景保が洋書をもとに世界地図の作成を命じられました。幕府が異国船の来航が増えるにつれ世界地図の必要性を感じたため。長崎の通訳馬場佐十郎のサポートを得て翻訳をすすめ、文化7年には「万国全図」を完成させました。景保は地理学の発展にも貢献。伊能忠敬による初の実測地図も、忠敬の死後、景保の手で出版されています。しかしのち、景保はシーボルトに日本地図を渡した罪で刑死するのです。
高橋景保(たかはし かげやす、天明5年(1785年) - 文政12年2月16日(1829年3月20日))は、江戸時代後期の天文学者。通称、作左衛門。天文学者である高橋至時の長男として大坂に生まれた。渋川景佑の兄。文化元年(1804年)に父の跡を継いで江戸幕府天文方となり、天体観測・測量、天文関連書籍の翻訳などに従事する。文化7年(1810年)、「新訂万国全図」を制作した(銅版画制作は亜欧堂田善)。一方で伊能忠敬の全国測量事業を監督し、全面的に援助する。忠敬の没後、彼の実測をもとに『大日本沿海輿地全図』を完成させる。
 文化8年(1811年)、蛮書和解御用の主管となり、「厚生新編」を訳出する業務を始めている。文化11年(1814年)には書物奉行兼天文方筆頭に就任したが、文政11年(1828年)のシーボルト事件に関与して10月10日に伝馬町牢屋敷に投獄され、翌文政12年(1829年)2月16日に獄死している。享年45。獄死後、遺体は塩漬けにされて保存され、翌年3月26日に、改めて引き出されて罪状申し渡しの上斬首刑に処せられている。このため、公式記録では死因は斬罪という形になっている。墓は上野の源空寺。高橋至時伊能忠敬高橋景保大日本沿海輿地全図組三人頭の墓地が並んでいる。
●蛮書和解御用(蕃書和解御用、ばんしょわげごよう)は、1811年(文化8年)に江戸幕府によって設置された蘭書を中心とした翻訳機関。幕府の編暦・測量を司る天文方内に置かれた。蛮(蕃)書和解御用掛( - かかり)とも。天文方高橋景保の提唱により設置され、大槻玄沢宇田川榕菴、青地林宗など優秀な蘭学者が翻訳官に任命された。シーボルト事件後は、同じ天文方の山路諧孝・彰常父子が引き継いだ。その後も、洋学所、蕃書調所、洋書調所と名を変えて存続し、現在の東京大学の起源の一つとなった。

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<今日の小池劇場>
東京五輪パラリンピック再生可能エネルギー積極活用”
 東京都・港区で行われたシンポジウムにて、小池知事は、東京五輪パラリンピックで”再生可能エネルギー積極活用”する構えを伝えた。具体的には、燃料電池車などの再生可能エネルギーを積極的に使用していくことだそう。