渡辺 崋山

◆渡辺 崋山(わたなべ かざん、寛政5年9月16日(1793年10月20日) - 天保12年10月11日(1841年11月23日))は、江戸時代後期の武士、画家。三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった。
 藩士としては、8歳で時の藩主三宅康友の嫡男・亀吉の伽役を命じられ、亀吉の夭折後もその弟・元吉(後の藩主・三宅康明)の伽役となり、藩主康友からも目をかけられるなど、幼少時から藩主一家にごく近い位置にあった。こういった生い立ちが崋山の藩主一家への親近感や一層の忠誠心につながっていった。16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕するが、納戸役・使番等など、藩主にごく近い役目であった。文政6年(1823年)、田原藩の和田氏の娘・たかと結婚し、同8年(1825年)には父の病死のため32歳で家督を相続し、80石の家禄を引き継いだ(父の藩内の出世に合わせて、禄は復帰していた)。同9年には取次役となる。ところが、翌10年に藩主康明が28歳の若さで病死してしまい、藩首脳部は貧窮する藩財政を打開するため、当時比較的裕福であった姫路藩から養子を持参金付きで迎えようとした。崋山はこれに強く反発し、用人の真木定前らとともに康明の異母弟・友信の擁立運動を行った。結局藩上層部の意思がとおって養子・康直が藩主となり、崋山は一時自暴自棄となって酒浸りの生活を送っている。しかし、一方で藩首脳部と姫路藩双方と交渉して後日に三宅友信の男子と康直の娘を結婚させ、生まれた男子(のちの三宅康保)を次の藩主とすることを承諾させている。また藩首脳部は、崋山ら反対派の慰撫の目的もあって、友信に前藩主の格式を与え、巣鴨に別邸を与えて優遇した。崋山は側用人として親しく友信と接することとなり、のちに崋山が多くの蘭学書の購入を希望した際には友信が快く資金を出すこともあった。友信は崋山の死後の明治14年1881年)に『崋山先生略伝補』として崋山の伝記を書き残している。天保3年(1832年)5月、崋山は田原藩の年寄役末席(家老職)に就任する。20代半ばから絵画ですでに名を挙げていた崋山は、藩政の中枢にはできるだけ近よらずに画業に専念したかったようだが、その希望はかなわなかった。
 こうして崋山は、藩政改革に尽力する。優秀な藩士の登用と士気向上のため、格高制を導入し、家格よりも役職を反映した俸禄形式とし、合わせて支出の引き締めを図った。さらに農学者大蔵永常を田原に招聘して殖産興業を行おうとした。永常はまず田原で稲作の技術改良を行い、特に鯨油によるイネの害虫駆除法の導入は大きな成果につながったといわれている。さらに当時諸藩の有力な財源となりつつあった商品作物の栽培を行い、特に温暖な気候の渥美半島に着目してサトウキビ栽培を同地に定着させようとしたが、これはあまりうまくいかなかった。このほか、ハゼ・コウゾの栽培や蠟絞りの技術や、藩士の内職として土焼人形の製造法なども伝えている。天保7年(1836年)から翌年にかけての天保の大飢饉の際には、あらかじめ食料備蓄庫(報民倉と命名)を築いておいたことや『凶荒心得書』という対応手引きを著して家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどで、貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国で唯一幕府から表彰を受けている。また、崋山は藩の助郷免除嘆願のために海防政策を口実として利用した。それによって田原藩は幕府や諸藩から海防への取り組みを高く評価されたが、それは助郷免除嘆願のための隠れ蓑で、崋山自身は開国論を持っており鎖国・海防に反対だった。
 紀州藩儒官遠藤勝助が設立した尚歯会に参加し、高野長英などと飢饉の対策について話し合った。この成果として長英はジャガイモ(馬鈴薯)とソバ(早ソバ)を飢饉対策に提案した『救荒二物考』を上梓するが、絵心のある崋山がその挿絵を担当している。その後この学問会は天保8年(1837年)のモリソン号事件とともにさらに広がりを見せ、蘭学者の長英や小関三英、幡崎鼎、幕臣川路聖謨、羽倉簡堂、江川英龍(太郎左衛門)などが加わり、海防問題などまで深く議論するようになった。特に江川は崋山に深く師事するようになり、幕府の海防政策などへの助言を受けている。こうした崋山の姿を、この会合に顔を出したこともある藤田東湖は、「蘭学にて大施主」と呼んでいる。崋山自身は蘭学者ではないものの、時の蘭学者たちの指導者的存在であるとみなしての呼び名である。これに対して田中弘之は、幡崎・川路・羽倉・江川は尚歯会に参加しておらず、崋山と川路・江川が個人的に親交を持っていただけだったと指摘している。崋山や長英・三英は内心では鎖国の撤廃を望んでいたが、崋山は幕府の鎖国政策に反対する危険性を考えて海防論者を装っていた。江川は崋山を評判通りの海防論者と思い接近したが、崋山はそれを利用して逆に江川に海防論の誤りを開発しようとしていた。
 翌天保9年(1838年)にモリソン号事件を知った崋山や長英は幕府の打ち払い政策に危機感を持ち、崋山はこれに反対する『慎機論』を書いた。しかしこの書は海防を批判する一方で海防の不備を憂えるなど論旨が一貫せず、モリソン号についての意見が明示されず結論に至らぬまま、幕府高官に対する激越な批判で終わるという不可解な文章になってしまった。内心では開国を期待しながら海防論者を装っていた崋山は、田原藩の年寄という立場上、『戊戌夢物語』を書いた長英のように匿名で発表することはできず、幕府の対外政策を批判できなかったためである。自らはばかった崋山は提出を取りやめ草稿のまま放置していたが、この反故にしていた原稿が約半年後の蛮社の獄における家宅捜索で奉行所にあげられ、断罪の根拠にされることになるのである。かつて、蛮社の獄は、幕府の保守派、目付鳥居耀蔵蘭学者を嫌って起こした事件とされていたが、実際には、鳥居と江川英龍との確執が原因であり、天保10年(1839年)5月、鳥居は江川とその仲間を罪に落とそうとした。江川は老中水野忠邦にかばわれて無事だったが、崋山は家宅捜索の際に発表を控えていた『慎機論』が発見され、陪臣の身で国政に容喙したということで、田原で蟄居することとなった。天保12年(1841年)、田原の池ノ原屋敷で謹慎生活を送る崋山一家の貧窮ぶりを憂慮した門人福田半香の計らいで江戸で崋山の書画会を開き、その代金を生活費に充てることとなった。ところが、生活のために絵を売っていたことが幕府で問題視されたとの風聞が立ち、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹した。

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<今日の小池劇場>
◆東京以外の会場 “当初の計画通り 組織委が負担を”
 東京オリンピックパラリンピックに向けたブランド戦略を議論する会議に出席した、東京都の小池知事。見直しが進められている観光ボランティアのユニフォームについて、「スピード感をもって具体的な段階に入りたい」と述べた。
焦点となっている開催費用をめぐる動き。東京大会では、東京都以外の競技会場は、現時点で合わせて6道県13施設に及ぶ。組織委が会場を抱える自治体などにも負担の一部を求める案を示したことを受け、関係自治体は小池知事に対し計画通り組織委が全額負担するよう求めた。組織委・東京都・国の3者は、費用分担の議論を年明けから本格的に進めることにしている。