藪入り
<今日の江戸学トピック>
◆1月16日は江戸では藪入り。かつて商家などに住み込み奉公していた丁稚や女中など奉公人が休暇をもらい実家に帰省する日。本来は農漁村で嫁が実家に里帰りする日。藪入りは今日と「後の藪入り」といわれる7月16日の年二回ありました。
藪入りの習慣が都市の商家を中心に広まったのは江戸時代である。本来は奉公人ではなく、嫁取り婚において嫁が実家へと帰る日だったとされるが、都市化の進展に伴い商家の習慣へと転じた。藪入りの日がこの二日となったのは、1月15日(小正月)と7月15日(盆)がそれぞれ重要な祭日であり、嫁入り先・奉公先での行事を済ませた上で実家でも行事に参加できるようにという意図だったとされている。
<江戸学チェック>
●生麦事件
文久1 1861 東禅寺事件
文久2 1862 生麦事件
文久3 1863 薩英戦争
1. 4名の英国人が出くわした行列は誰の行列・・・島津久光
2. 薩摩藩の藩主は・・・島津忠義
3. 幕府は英国にいくらの賠償金を支払いましたか・・・10万ポンド
4. この時 将軍家茂はどこにいましたか・・・京都
* 幕府と英国の決着はつきましたが、薩摩藩と英国とのあいだでは 犯人処罰,賠償金の支払いが未解決でした
5. (薩摩と英国において)交渉決裂の原因は 犯人処罰に関する文章の誤訳にあったとも言われています。翻訳にあたった人物は 誰・・・福沢諭吉
* 薩英戦争に突入
薩英戦争(さつえいせんそう、文久3年旧暦7月2日–4日(1863年8月15日–17日))は、英国と薩摩藩の間で戦われた戦闘。文久2年旧暦8月21日(1862年9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した生麦事件の解決と補償を艦隊の力を背景に迫る英国と、攘夷実行の名目のもとに兵制の近代化で培った実力でこれを阻止しようとする島津兵が、鹿児島湾で激突した。薩摩方は鹿児島城下の約1割を焼失したほか砲台や弾薬庫に損害を受けたが、人的損失は最小限にとどまり、陸戦隊の上陸を一歩も許さずに艦隊を横浜に追い返すという予想外の善戦を見せた。この戦闘を通じて英国と薩摩国の双方に相手方のことをより詳しく知ろうとする機運が生まれ、これが以後両者が一転して接近してゆく契機となった。
6. 生麦事件以前 東禅寺(高輪)で襲われた英国人がいました。それは誰・・・オールコック
生麦事件【参考動画】 (企画 鹿児島市教育委員会 5:45) https://www.youtube.com/watch?v=ood9fwokVGQ