大久保主水

<今日の江戸学トピック>
◆大久保 忠行(おおくぼ ただゆき、生年不詳 - 元和3年7月6日(1617年8月7日))は戦国時代から江戸時代の武士、治水家。通称は主水(もんと)。
永禄6年(1563年)、三河一向一揆三河大久保党三十六騎の一人として出陣するが、鉄砲の弾が腰に当たって落馬・負傷し、以後歩行が不自由となる。
これにより実質、侍としてのいわゆる「槍働き」ができなくなり、戦役を免除され、忠行は菓子類の制作ができ、この技術により家康の陣営に茶菓(餅)を献上する役目、いわゆる菓子司となった。忠行の作った餅は駿河餅、ないしは三河餅と呼ばれ、この餅を含めた各種の菓子は家康の嗜好に合ったらしく、度々忠行にこれを求めていた。天正18年(1590年)7月12日、徳川家康の江戸入府に際し、江戸城下の上水工事の命を受け、大久保忠行は、小石川上水を開削。その後、約3か月で小石川目白台下の河流を神田方面に通し、これは後の神田上水の元となったとされている。また、この功績により家康から「主水」の名を与えられたが、水が濁ることを嫌って「もんど」ではなく「もんと」と発音するように命じられた。主水の子孫は代々「大久保主水」を名乗り、幕府御用達の菓子司となった。江戸城内での行事に使用する菓子類の制作時には、歴代の大久保主水が責任者となり采配した。

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