出世稲荷神社

<今日の江戸学トピック>
◆東京ドームシティ向かいの路地奥に佇む出世稲荷神社は、文京区本郷にある稲荷神社である。出世稲荷神社は、当地付近が春日局の屋敷だった時、3代将軍家光の乳母・春日局が京都伏見から勧請し、邸内鎮守として創建。春日局明智光秀重臣を父にもち苦難の幼少期を過ごした局が、大奥の最高権力者に上り詰めたことから、出世稲荷と称されるようになったといわれている。周辺は局が幕府から拝領した町人地で、これが文京区春日の地名の由来。
 ・春日局  http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20160928#p3
◆小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣勘定奉行江戸町奉行外国奉行安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。
 徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)に隠遁。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首。逮捕の理由としては、大砲2門・小銃20挺の所持と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)などが挙げられるが、これらの説を裏付ける根拠は現在まで出てきていない。のちに、明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、大隈重信東郷平八郎から幕府側から近代化政策を行った人として評価されている。司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と記した。