今日から2月。

◆今日から2月に突入。当面の勉強スケジュールのスタートである。質も大事であるが、いかに量に挑戦するかが大きな課題。今年のテーマを含めて、読書量を確保するのかが課題である。気合をいれてまず、この2月3月の2か月をどう乗り切るかが課題である。

<今日の読書>
 ・天璋院篤姫和宮
 ・鳥羽・伏見の戦い
 ・戊辰戦争
 ・江戸博覧強記①

<今日の江戸学トピック>
◆慶長7年(1602)2月1日、徳川四天王の一人、井伊直政が亡くなった。42歳。遠江国静岡県井伊谷(いいのや)に井伊直親の子として誕生。井伊氏第17代または24代当主。 上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩彦根藩)の初代藩主。徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。自身が組織した井伊の赤備えは戦国屈指の精鋭部隊として特に有名である。徳川氏きっての政治家・外交官としても名高い。遠江国井伊谷の出身で、『柳営秘鑑』では榊原氏や鳥居氏と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている。徳川四天王(とくがわしてんのう)は、安土桃山時代から江戸時代初期に、徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政の4人の武将を顕彰した呼称。本多忠勝榊原康政井伊直政の3人は1590年の徳川氏の関東移封から1600年の関ヶ原の戦いまでの時代に徳川氏の家政と関ヶ原の戦いに関わる大名工作・戦後処理に中心となって活躍して幕府の基礎固めに功績があり、特に彼らを指して徳川三人衆もしくは徳川三傑と呼ぶ場合もある。「徳川四天王」の名称はいつから使われたかは定まらない。本多・榊原・井伊の三名は翌月、徳川家康上洛に随行して何れも叙位され、これに酒井を加えた四名の「徳川四天王」の名が巷間もてはやされるようになったと上越市文化財審議委員の村山和夫氏は述べている。 四天王はその後、1589年の家康関東移封時に家康配下の大名としていずれも万石以上となり、徳川家の重臣としての地位を確立する。既に徳川家臣団中、当主一門を除いては最高の官位・官職にあった井伊は家中最高の12万石を与えられて高崎藩を立藩、榊原は関東総奉行兼勘定方支配(後の関東郡代勘定奉行)に任じられて館林藩10万石を立藩、本多は年寄(後の老中)に任ぜられて大多喜藩10万石を立藩した。酒井忠次は1588年に既に隠居しており、後継の酒井家次が下総臼井藩を立藩したが、わずか3万7000石という低い待遇を与えられ、他の四天王とは明確に格差が開いていた。父直親は織田信長徳川家康と通じているとして今川氏真によって謀殺。兵具を赤とした「井伊の赤備え」という部隊を組織、自身も「赤鬼」と呼ばれた。この直政の後見人となったのがNHK大河ドラマの主人公井伊直虎