由利公正、中村 勘三郎。

<今日の江戸学トピック>
◆「みんなの心をつかむ突破力〜経済の達人・由利公正」(平成29年2月14日Eテレより)
 坂本龍馬がほれた経済の達人、福井藩由利公正(ゆりきみまさ)。その魅力は、何か思いついたらただちに一人で走り始め、危機があってもどんどんぶち破っていく突破力!ところがやがて、庶民と心を一つにした時の爆発力の方がはるかに強いと気づく。激動と謀略と戦乱の明治維新、由利はどうやって人々の心をつかみ、新政府の経済的な難問を解決していったのか、人の心をつかんで味方を得る。その極意とは。
 明治維新の立役者として西郷隆盛木戸孝允などが挙げられるが、明治維新を支えた人物の中で由利公正(三岡八郎)もその功労者の一人ではないだろうか。幕末の福井藩士であった由利公正は、「五箇条の御誓文」の草案の起草者として有名。御誓文は、明治維新の指導精神として、近代国家建設のさまざまな施策に受け継がれた。また、日本で最初の全国通用紙幣である太政官札を発行し、新政府の運営費を賄った。福井藩と国の両方で活躍した『由利公正』。数々の業績やエピソードもあり、ここ福井にもゆかりの地が残されている。由利公正とはどういう人物だったのか? その人柄や功績と合わせて、福井で生きた由利公正の軌跡を辿ってみると、
 <略歴>
 文政12年(1829)、福井城下毛矢に生まれる。福井に来遊した横井小楠の学問に影響を受け、藩財政を研究。殖産興業策を進め、藩財政を黒字化した。慶応3年(1867)、坂本龍馬が新政府への参画を求め来訪。その後、明治新政府に徴士参与として登用。財政を担当する。明治元年(1868)、「五箇条の御誓文」の草案を起草。同年、太政官札を発行。従四位下に叙せられる。明治4年(1871)には、廃藩置県後の初代東京府知事となり、翌年、岩倉欧米視察団に随行。その後、元老院議官、貴族院議員を務める。明治42年(1909)、81歳で没。
 ・坂本龍馬とは気の合う同志。
 一昨年発見され、全国的なニュースとなった坂本龍馬から後藤象二郎に宛てた手紙には新政府の財政担当者に由利を推す旨の記載がある。由利と坂本龍馬とは大変気が合う仲で、龍馬二度目の福井来訪時、足羽川近くの山町の莨屋(たばこや)旅館にて、早朝から深夜まで延々日本の将来を語り合った。当時、謹慎中の公正には立会人として藩士が付き添ったにもかかわらず、龍馬は遠慮せずに「三岡、話すことが山ほどあるぜよ」と叫んだと伝えられる。五箇条の御誓文の原文となった「議事之体大意」は龍馬の「船中八策」と思想的な基本が共通している。龍馬が福井を離れてから10日後、家老の家に招かれた由利は、帰り道、懐中に忍ばせていた龍馬の写真が無くなっていることに気付く。胸騒ぎがしたその2日後、龍馬の死を知ることとなる。
 ・横井小楠との運命的な出会い
 由利は横井小楠の教えに従って、福井藩でも産業奨励を行うことになり、その責任者に選ばれる。「あいつは銭勘定ばかり堪能で、武士にあるまじき振る舞いをしている」と周囲から馬鹿にされてきたが、小楠の出現により、これまでの由利に対する批判が一変する。小楠が福井へ赴いた年、弟死亡の知らせで一時帰国することとなった際、由利も熊本に同行し、毎夜、小楠と酒を酌み交わし議論を行った。この3年後、由利は再度熊本に小楠を訪ねている。 
 ・由利は長崎に四度出張している。安政5年、物産を興し通商貿易を行って収入を図るよう中根雪江橋本左内に働きかけ、貿易資本の確保と貿易状況の視察を建議し採用される。その後長崎に出張し、唐物商、小曽根乾堂の協力を得て、同所浪ノ平に越前蔵屋敷を設けた。そののち長崎江戸町に福井屋が開設され、そこを拠点に生糸などの輸出が行われる。同じように横浜にも出店が設けられ、販路開拓が図られた。
 ・紙幣発行のため、京都、大坂で資金集め 明治新政府徳川慶喜追討のため、御用金(会計基立金)を集める必要に迫られ、由利がその責任者となる。明治元年、由利は京都の大商人に5万両、大坂の大商人に同じく5万両の調達を命じ、計10万両の御親征費が調達される。紙幣の発行により産業振興を図ろうとした由利は、まず大坂でその準備に入る。同年5月には紙幣発行の日が決まったものの、反対論は根強かったため、由利は、「私は覚悟した。(発行されなければ)二条城に保管してある金札に火を付け、自刃する。」と訴え、予定通りの発行にこぎつけた。
 ・知事公舎も燃えた大火で一念発起
 明治5年2月26日、和田倉門内兵部省から出火し銀座、京橋さらに三十間堀から築地まで燃え広がり、5千戸、28万余坪を焼き尽くす大火となった。由利の公舎も類焼した。この火事をきっかけに由利は東京不燃化計画を作成し、実現を図った。由利は、当時のニューヨークやロンドンなど、国際都市の目抜き通り並みに銀座大通りを45.5メートルにすべきだと主張したが、大蔵省側の反対にあい、27.3メートルの拡幅となった。

◆中村 勘三郎(なかむら かんざぶろう)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は、初代以降が柏屋、十四代目以降が舞鶴屋、十七代目以降が中村屋定紋は、初め丸に舞鶴(まるに まいづる)だったが、のちに角切銀杏(すみきり いちょう)に代わった。今日ではその丸に舞鶴が替紋として復活している。初代中村勘三郎は、元和10年(1624)2月15日、猿若(中村)勘三郎として、猿若座の櫓を立てて興行を開始。初の幕府公認芝居小屋となりました。勘三郎は山城の生まれ。京都で大蔵流狂言から歌舞伎に転じ、猿若芸で名声を得たことから猿若勘三郎と名乗りました。そして、江戸に出て、能狂言を歌舞伎に取り入れて興行したいと幕府に願い出た。当初「中村勘三郎」は江戸三座の一つ・中村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、後代になると座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。幕末になると「中村勘三郎」は実際に名乗る者がいない「預かり名跡」となった。これを昭和になって復活させたのが十七代目中村勘三郎である。

<今日の江戸学トピック>
寛永元年(1624)2月15日、猿若(中村)勘三郎が中橋南地に初の幕府公認の芝居小屋、猿若座を創設。歌舞伎芝居の興行を開始。京都で大蔵流狂言から歌舞伎に転じ、猿若芸を得意として江戸に出ました。能狂言を歌舞伎に取り入れた芝居の興行を幕府に願い出ていました。

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◆今日は営業所長の集まり。その後久しぶりに懇親会。いつも、所長さんがたの努力に感心させられる。それこそ負けていられるかとのきもちになるが、皆さん、まさに「すごいですよ。」の印象。明日から負けずに頑張っていきたい。と痛感ですね。

<今日の読書>
 ・ 幕末会津藩
 ・ 江戸博覧強記 ①