江戸時代の二大史書

◆明日から3月に入る。この2か月のワンクールも前半終了。自分で期待したほど勉強が進んでいない感がする。この3月巻き返しを図っていこう。

<今日の読書>
・ 戊辰戦争
・ 博覧強記
<今日の勉強>
・ 過去問の整理
・ 年号の暗記(まだまだである。年号以外のカードの暗記を繰り返していきたい。)

<明日3月1日のテレビ放映>
・水曜歴史探訪・謎解き!江戸のススメ「15代将軍 徳川慶喜」〜江戸を看取った男 BSTBS 19時00分〜19時54分

<江戸学トピック>
◆江戸時代の二大史書・・・『大日本史(だいにほんし)』と『本朝通艦(ほんちょうつがん)』
・『本朝通艦(ほんちょうつがん)』
 3代将軍徳川家光は、正保元年(1644)、儒者林羅山国史の編纂を命じ、羅山は、六国史の記述をもとに、神武天皇から宇多天皇に至る歴史を記し、『本朝編年録』と題して進呈した。しかし『本朝編年録』は、明暦3年(1657)の大火で焼失。寛文2年(1662)、4代将軍家綱は、羅山の子の鵞峰に国史編纂の再開を命じ、永井尚庸を総裁として新たに編纂事業が始まった。史料の収集、調査、執筆等は、上野忍岡に設けられた国史館で鵞峰を中心に進められ、寛文10年(1670)、神代から後陽成天皇の慶長16年(1611)までを漢文体で記した全310巻の編年史が完成(前編3巻・本朝通鑑40巻・続本朝通鑑230巻・本朝通鑑撮要30巻・附録5巻・首2巻)、『本朝通鑑』と総称された。清書本と中書本(最終的な清書本を作成する前の中間的な清書本)それぞれ310冊が幕府に進呈され、清書本は紅葉山文庫に収められた。中書本は将軍家綱の座右に置かれた。『本朝通鑑』の書名や形式は、司馬光の『資治通鑑』や朱熹の『資治通鑑綱目』に倣っている。
・『大日本史
 明暦3年(1657)2月27日、御三家のひとつである水戸徳川家当主である徳川頼房の次男光圀が江戸神田の別邸に史局を設置し、光圀によって開始され、光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成した。神武天皇から後小松天皇まで(厳密には南北朝が統一された1392年(元中9年/明徳3年)までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱う。紀伝体史書で、本紀(帝王)73巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)170巻、志・表154巻、全397巻226冊(目録5巻)。携わった学者たちは水戸学派と呼ばれた。『大日本史』は光圀死後の1715年(正徳5年)、藩主徳川綱條による命名で、同時代には『本朝史記』や『国史』『倭史』と呼ばれている。

寛永15年(1638)2月28日、前年から続いていた島原・天草での大規模な一揆が4か月の攻防の末鎮圧。原城は落城し、一揆軍は全員死亡しました。領主の苛政に対して起きた島原の乱天草四郎を首領にして島原と天草の領民が連合して蜂起、それにキリシタン弾圧への抵抗が結びついたもの。前年の12月より原城に立てこもって抵抗を続けていた一揆勢2万数千人は食糧が尽きて飢餓状態となり、この日、幕府軍の総攻撃にあいました。この日から200年、幕府の権力は安泰となり、日本で砲声を聞くことはなかったのですが、それを破ったのが大塩平八郎の乱でした。